2016/12/23

あやめ十八番『霓裳羽衣』

壮大な舞台だった。インドの神々と人間が織り成す「不幸には底がない」という話。
東京芸術劇場初進出作品として、劇場のスケールを軽く超えた壮大なスケールの話を打ち出した。
思えばあやめ十八番前作の『雑種 花月夜』は離婚した旦那さんに会うかどうかという話と劇中の虫ミュージカルで、めっちゃミクロな世界からめっちゃマクロな世界へと大転換しているので(笑)、その振れ幅の大きさには驚かざるを得ない。

インド神話から取った神々の名前、あと、「劫=一辺40里の岩を、326年に一度天女が舞い降りて羽衣(霓裳羽衣)でなで、岩がすり減って完全になくなるまでの時間を指す」という長い年月を表すたとえ話を借りて、ストーリーは作・演出であやめ十八番主宰の堀越涼さんがオリジナルで作ったものだということ。

そして、「贋作女形」芝居。
堀越さんの花組芝居での女形経験という演劇的ルーツに遡る試みでもある。
堀越さんに本公演のパンフレットの取材で伺った話では、「岩の下敷きになった女の子の話がやりたい」と思いついた→この話のスケールに合うのはインド神話くらいしかないと思いついた→さらに、大奥の話を合体させた、という順番で発想されていったということ。

まあ、最近はオールメールでやる舞台も結構ある。そして、私個人としては(元が宝塚ファンからスタートしているので)「男役十年」みたいな積み重ねてきた「芸」を見ることを尊重する、という立場もあり、贋作女形劇というのはどうだろうか……というのは見る前は若干の不安もあった。が、実際見てみてなかなか面白いものだったと思う。それは「設定を大奥にしよう」としたのが功を奏したのかな。インドの神様の話なのに全体的に歌舞伎味の強い台本であっても設定が大奥だから違和感なく、統一感が取れている。おそらくは演技として基調に堀越さんの作る女形像があり、そこからそれぞれの人の個性とアプローチで女形を作るということでバラエティに富みつつ、散漫にならないものが出来上がっていた気がする。

ギリシャ悲劇に通じるような神々の壮大な話を演じられるのは男性の力強い肉体を持ってこそだし、逆に男性がやるからこその、ちょっとした(ふふっと笑っちゃうような)おかしみもあったのもポイントになった。
千穐楽のご挨拶で堀越さんが「贋作女形劇、またやりたい」というようなことをおっしゃっていたけれど、他の劇団やユニットではできないものだと思うので、ぜひまた違う形で見てみたいなと思う。

話としては本当に不幸な話で、しかも最後の最後まで徹頭徹尾不幸な話で、そこまで行くとカタルシスがあるなあという感じ。なんだけれども、今回2回見て2回ともふっと目が潤んだのは、ソーマの死の直前に亡くなったお母さんが迎えに来る場面。不幸で塗りこめられている話の中で、純粋な愛情を娘に注ぐ母の姿が印象的で(母親役梅澤裕介さん好演)、そこに家族の愛情を貴ぶ堀越さんの視点があったように思う。

演出的な見せ方として、役者さんが動かすパネルで、岩と大奥の襖を裏表で表現するところに、ダイナミックさがあった。もう一つ、ステージ上の段に生演奏の楽隊(今回は全員役者さんと音楽の吉田能さんが演奏)がいて、彼らも神々であり、他の神々の争いを高みの見物しつつ、上界から音楽が降り注ぐいう構図が効果的だった。(サラスバティーの田中真之さんの「インドの神様」感が半端ない)今回もオリジナル音楽と生演奏、それに生効果音で作品をより立体的にした。特に、カーテンコールでも演奏される曲がインドの悠久さを感じさせる。

すべての発端となるダーキニーの笹木晧太さんは色気があって、笹木さんとしても今までにない感じを見せた。御台所パールバティー小林大介さんと姉妹役の原口紘一さん、小坂竜士さんが男性がやる女形ならではの迫力。小林さんの髭の女形も「あー、そうだよね」となぜか納得がいった(笑)。アラクシュミー(インド神話の不幸を司る女神の名前だが、邪視という設定は堀越さんが考えたものかな?)の尾﨑宇内さんの悲劇性が色濃くて、物語が深まった。ラクシュミー堀越さんは登場した瞬間から、違う世界の神という存在感が極まる。

復讐の鬼となるサントーマ・シー美斉津恵友さんは「鬼」になった変化をくっきり見せたのと、客席を通り過ぎる動きが水を滑るようでさすがだな、と。ウシャス北沢洋さんの「海千山千」なしたたかさ、老婆の熊野善啓さんの深さ。水澤賢人さんの少女アシュミタの純粋さ。ソーマの二瓶拓也さんが普通の少女が運命の糸に絡めとられて行く様が切ない。ヴィナーイカーの和知龍範さんが美しく、ラストに衝撃感。塩口量平さんのお褥滑りの側室ミーナクシーが面白く、シュクラの聡明さも。女狐ジョヌ(佐藤修作さん)の最初の台詞が「今夜」が「コーーーンヤ」になって、『義経千本桜』の狐忠信の狐言葉みたいになっていたのが面白い趣向。

力のこもった舞台だった。2時間5分の上演時間中、1時間50分くらいまで「この話はどういう先に行き着くんだろう」と思って見ていて(笑)、強い物語力に引きずられていった。あやめ十八番という団体としては、また新たなタームに到達したなという印象。

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2016/10/25

ミュージカル『ドリアン・グレイ』(韓国)~キム・ジュンスが深いドラマを創り出す

ソウル・城南アートセンターでオリジナルミュージカル『ドリアン・グレイ』を観劇した(22日マチネ・ソワレ)。
注目はキム・ジュンスさんのドリアン、パク・ウンテさんのヘンリー、チェ・ジェウンさんのバジルという布陣。そして演出家イ・ジナさんの手腕。
イ・ジナさんは以前『ヘドウィグ』を見たとき、キム・ジェウクさん主演時と別の方の主演時でまったくアプローチと演出を変えてきて、なおかつ本質に迫っていくスタイルを取っていて、感嘆させられた。(← 2011年観劇時のブログ「韓国版『ヘドウィグ』」参照)
今回は、キム・ジュンスさんというキャストを得て、ジュンスさんの個性と特技を用いてドリアン・グレイという人物像を浮き彫りにする。(ショーアップ目的で本人の個性を生かす、ということでなくて、役者の個性を通して役柄により深くアプローチしようとしてらっしゃるのだと思う)

なぜタイトルが原作どおりの『ドリアン・グレイの肖像』でなくて『ドリアン・グレイ』という人物名になっているかというと、肖像の変化という怪異譚でなく、ドリアン・グレイという人物像を描き、そこに「良心との葛藤」という普遍的なメッセージを込めたいからはないか、と想像する。

そして、オリジナル・ミュージカルということ。私は日本では宝塚の紫吹淳さん主演版、スタジオライフのオールメール(男優のみ)版、山本耕史さん主演の出演者が6人のみのバージョンとを見ているが、観念的な内容の原作はミュージカル化するにはハードルが高い演目だと思う。今回の韓国版は工夫を凝らし、豊かな音楽と想像をかきたてる映像を交えた美術で、クラシックな雰囲気の中に現代的な要素を盛り込んで、現代に通じる作品として仕上げた。

特に印象に残るのは、ドリアンと最初に出会ったヘンリーが唯美主義を歌うナンバー。このメロディを続けてドリアンが歌うことで、唯美主義の考えがドリアンの心に浸透していっているということが表現され、観客も理屈でなく実感として受け止められる。ミュージカルならではの表現で、この作品をミュージカルにした意味があった。このメロディはドリアンの死の直前のソロの中でも一部歌われて、ドリアンの20年の軌跡も感じさせるのだ。

***
ドリアンは、友人の画家バジルが描いた肖像画を見て自分の美しさに気付く。唯美主義を実践するヘンリーの感化を受け「自分の代わりにこの絵が年を取ればいいのに……」と願ったドリアンの言葉が現実のものに。ドリアンの美しさはそのままに、肖像画がドリアンの悪事の代償を引き受けて醜くなっていく……。
作者のオスカー・ワイルドは「ヘンリーは世間の人から見た私、バジルは私が自分自身だと思う私、ドリアンは自分がなりたい私」と書いているが、この舞台でもこの3人を中心としてストーリーが進んでいく。

キム・ジュンスさんのドリアン・グレイ。
これまでのミュージカルにおけるジュンスさんは、たとえば『エリザベート』のトート役での登場シーンでエリザベートの肖像画をずっと見つめて、客席には後ろ姿を向けていたり、『デスノート』1幕ラストで高所の手すりに飛び乗ってしゃがみ込み、不安定な世界をL役として象徴して見せたり、と独自の感性とアプローチで役柄を体現してきた。今回のドリアン・グレイ役では演技者としてさらに深みを見せた。
純粋な青年がヘンリーによって唯美主義を吹き込まれ、悪事を重ねながらも自身の美しさは20年も保ち続ける……という役だがそのときどきに表情を変えて、人物像を明確に浮かび上がらせる。
特に、純真な姿からスタートした1幕と悪の世界に身を浸す2幕の違いが対照的だ。この二面性の浮かび上がらせ方は、作者オスカー・ワイルドが一つの事柄に常に二面性を与えていたこととも重なり合う。

上に書いたイ・ジナ演出が「役者の個性を通して役柄により深くアプローチする」という点では、ジュンスの得意とするダンスをミュージカルにも取り入れた。最初の登場シーンでショパンの曲に載せたダンスではドリアンのピュアな内面を表し、1幕のラスト「Against Nature」では自然の摂理に逆らったでも唯美主義を体現したいと願う激しい思いをダンスにぶつける。2幕冒頭の肖像画の影とドリアン自身との葛藤をダンスに表現するシーンは、物語上でもとても効果的だった。

ジュンスさんは今回のドリアン・グレイを演じるにあたって「さまざまな翻訳の原作を読みながら、1か月かけて俳優や演出家、作家たちと台本の内容を一生懸命勉強」したとのことだ。(先日、翻訳家の松岡和子さんに取材させていただいたとき「蜷川幸雄さんが翻訳戯曲を演出するときは、自分が使う台本だけでなく、あらゆる翻訳を手に入れて読んだ」というエピソードを語ってくれたのだが、それに通じるものがあると思う)深く物語をとらえようという努力が、ドリアンを演じる上での表現の多彩さや深みにつながったのだろう。特に2幕のラストシーンでの長いソロナンバーに、ドリアンに宿る様々な心理があふれ出た。ドリアンの人生がそこに凝縮し、大きなドラマを生んだ。

パク・ウンテさんのヘンリーは、彼の唯美主義の思想を歌で表現するという役どころであり、確かな存在感を放った。20年の経過を演技で見せたもらえたら、よりよかったかと。日本では『スリル・ミー』の「私」役で知られるチェ・ジェウンさんはバジル。バジルの人柄がにじむ演技で好演。ドリアンのジュンスさんと、三人のトライアングルで見せる舞台だった。

作品中で気になるところをあげるとすれば、ドリアンが恋するシヴィルの設定。原作の場末の女優でなく大劇場の女優にしたのは、見栄えの問題を考えてかもしれないけれど、「醜の中に美を見つける」という原作に描かれた対比が生きてこない。恋をしたシヴィルが演技下手になる…というシーンが戯画的に描かれているのも、個人的にはあまり好みではない。チェコで撮ってきたという映像は概ね美しいが、本人が歌っているところでご本人の映像が大写しになるのは、せっかく生身で演じている方が見辛くなってしまうので、一考を要するところ。

話がそれるが、日本では大劇場で上演される、日本人スタッフによるオリジナルミュージカルは非常に数少ない。(今年だと『DNA SHARAKU』くらいか? 『王家の紋章』はオリジナルミュージカルの新作だが、作曲はリーヴァイさんだったし)それだけオリジナルミュージカルを作るのが大変だということだし、これだけの上演規模とレベルの高い音楽、美術、演出とで新作『ドリアン・グレイ』を生み出したパワーには感服する。

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2016/06/04

あやめ十八番『江戸系 諏訪御寮』

漆黒に黒を塗り重ねたような、闇。
そんな深い闇を感じさせたのがあやめ十八番初の再演作品となる『江戸系 諏訪御寮』。
脚本は初演当時のままとのことだが、美術は初演の床面に大きい陰陽マーク(勾玉形の)と二角を白い障子が囲むものから、今回は同時上演の『ゲイシャパラソル』と共通の、正方形の黒い舞台に(客席二面)。LEDで鮮やかな色合いを印象付けた『ゲイシャ~』とは対照的に、この「漆黒」が、「鬼が死んだ赤ん坊をよみがえらせる」命を借りる物語でもあるこの作品を、さらに際立たせる。

初演は2014年で、そのときの感想はコチラ(「ある意味、EVERYTHING IS RENT~あやめ十八番『江戸系 諏訪御寮』を見ました」)。十六島にある鬼の伝説と「拝み屋」の諏訪家と篠塚家の物語、拝み屋の過去の怪異譚が絡み合うストーリーはもちろん同じだけれど、総合的な見せ方が洗練されて、音楽との緩急などから、複雑な筋立てをよりわかりやすく見せられるようになった印象(私が、堀越さんの作風を見慣れたせいかもしれないけど)。
また、お線香の匂いがするお札とか、火鉢の使い方とか、現実に根差したリアルな描き方、というか、リアルの演劇へのすくい上げ方もうまいなあ、と思う。

いろんな要素がある物語の中で、初演の感想にも書いたとおり、堀越さんの死生観、喪ったものたちとどう向かい合うのか、というのが個人的には印象に残る。
喪われたものは、いつか、かえってくるのだろうか。
2時間の物語にたゆたう内に、そんな思いが浮かんでは消えていく。

さて。演者では、御寮さん役の金子侑加さんが日本人形のような外見と「神性」さえ感じさせる演技で、鮮烈な印象を残した。土佐まりなさんの「少女」と美斉津恵友さん諏訪家次男春平との恋が瑞々しい。

劇中、扉をコツコツと叩く音にぞくっと背筋が寒くなるものを感じる。「怖い話をやろうというわけじゃない」と最初の口上で堀越さんが言っているけれど、心の中に素朴な恐怖心(畏怖心?)がかき立てられて、そんな心の隙間に物語のあれこれがしみわたっていくような舞台でもあった。

新たな代表作となるであろう新作『ゲイシャパラソル』と初期の代表作『江戸系 諏訪御寮』で、演劇的成果は高かったと思う二作品同時上演だった。

公演は5日まで、サンモールスタジオにて。チケット完売で、キャンセルが出たときのみ当日券が出るとのこと。


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2016/05/31

あやめ十八番『ゲイシャパラソル』

鮮やかに、花が開いた。
あやめ十八番の新作『ゲイシャパラソル』で、堀越涼さんの作劇が一段階大きくなった、という印象だ。
平成60年代の東京深川、芸者のお座敷が舞台。
擬古典ならぬ擬大正時代(?)のような、大正か昭和初期の雰囲気で未来の東京が語られる作品だ。


公演のパンフレットで堀越涼さんのインタビューをした関係で1シーンの稽古を拝見して中盤までの(結末まで至らない)台本を読んでいたけれど、パンフレットでも書いたとおり、話がこの先どう展開するかはまったく予測がつかず。これは初見のお客様が作品途中で抱く感想ときっと同じだと思うのだが、果たして本番で通して見て、ラストに至るまでの押し寄せるような展開に引き込まれた。劇中「ファンファン」と呼ばれる中国の台頭の話や名前の売買、戸籍を売った日本人たち、選挙の裏面などそれだけで一つの物語が書けそうな素材をたくさん投げ込み、粒立たせ、さらにそれが一人の芸者の恋に収束する。


印象が際立つシーンはたくさんあって。
自分の名前を売った芸者たちが名乗りを上げるシーンの鮮烈さ。不見転芸者(小口ふみかさん)と幇間(安東信助さん)の切ない恋。冒頭のダンス(振付ミヤタユーヤさん)。あるいはお座敷遊びのトラトラ、金毘羅船々の現代的なアレンジ(楽隊の吉田悠さん。今まであやめ十八番の音楽を担当していた吉田能さんとはご兄弟なのだが、能さんよりももっとソリッドでシャープな感覚があるのが作品に異化効果をもたらした)。
こんな様々な要素がぶつかり合わずに一本の芯に収束していくのは、堀越さんの手腕であって。また構造的にも、今までは重層的に物語が錯綜するスタイルの作品が多かったが(『江戸系 諏訪御寮』『淡仙女』など)要素は多くても、構造はそこまで複雑でなく、なおかつ観客がついていけなくなりそうなところは野良猫(木原実優さん)が説明してくれるので(笑)、今までよりストーリーラインはつかみやすいものになっていると思う。


そして、芸者。今の20~30代の作・演出家の方で芸者の世界がリアルに描ける人が他にいるかと考えるとそれは稀有なことだと思う。堀越さんが花組芝居『花たち女たち』などで芸者の役を演じている経験を活かし、また出演者もその演出に応えた。(演技的にはやはり堀越さんが演じる菊弥の芸者としての存在の仕方、「擬大正」の時代感は群を抜いているけれども)


ここで語られるのは深川でただ一人、名を売らない芸者、仇吉。実際に深川芸者は男名前をつけていたそうだが、そんな「意気と張り」を持つ彼女の内面が徐々に明かされていくのが一つのドラマとなる。演じるのは大森茉利子さんで、個人的には大森さんが演じて私が拝見したものの中では一番好きかな。前半の強くきつい芸者から、彼女の秘められた過去と恋にフォーカスし内面を見せる変化が瑞々しい。彼女の演技からふと「自分の存在って何だろう?」と思いを巡らせるものがあった。(強いて言えば、前半のきつい部分にももう少しいろんな色が見えてくれば、より素晴らしいかと)

そして、過去に仇吉と恋をした傘職人の笹木晧太さんが、すがすがしい存在感で回想シーンを彩る。


存在感といえば。
あまり小劇場の舞台では出てこないような「実存感」があるキャラクターが出てくるのも見どころ。実際に新内語りのお師匠さんでもある新内勝喜さんが三味線を演奏し、芸者に歌(芸)を教えるシーンがある。また、冒頭から登場する「おもらいさん」役の森川陽月さん。物語のキーになる重要な人物で、終わった後に思わず堀越さんに「あの人は誰ですか!?」と聞いたくらい(笑)、どろっとした、心をざわつかせる存在感があった。聞けば、長年演劇と関係ない仕事をしてきて、57歳にして役者を目指して上京された方とのこと。こういう方を見出して(オーディションにいらしたのかな?)適役に起用されるのも、堀越さんの慧眼かなあと思う。また、お座敷で端を発して「政治」的な攻防を繰り広げる男性二人、和知龍範さんと塩口量平さんは肚が据わったところを見せた。


こうしてつらつらと書いてきたけれども、そして普段は職業柄か芝居を見て「ここがこうで、こうだから→この芝居は面白いんだ」と自分の中で編もうとするところがあるのだけれど、うまくその枠組みにはまらないところがあるのを感じていて。あらゆる要素が有機的に絡まって、総合的な一つの塊として、この作品が演劇として面白いと思ったんだなー、と思う。この作品はこういうテーマ!と一言で言えるのなら、演劇にする必要もないし、とにかく125分、作品の世界に没入していたのは確かだ。
『ゲイシャパラソル』、あやめ十八番の新しい代表作の一つとして、花開いた(傘の花も)。

公演は6月5日まで、サンモールスタジオ。『江戸系 諏訪御寮』と交互上演。

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2016/02/26

新宿公社『ノンフィクション』観劇しました

新宿公社の旗揚げ公演の初日を観劇。以下感想。

新宿公社は作・演出を担当する小林弘幸さんが主宰。ラッパ屋などに出演されている青野竜平さんとの二人ユニット。小林さんはあやめ十八番や花組芝居の『毛皮のマリー』などの演出助手を担当されていた。脚本としては初めて書いた作品だそう。

壁、をモチーフとした話。近未来かパラレルワールドか、一つの民族が壁を隔てられている(東西ベルリンとか韓国北朝鮮のような設定?)世界と、そこから十数年後の壁がなくなった世界が交互に語られる。時代が細かく行き来するので、初めは「?」と思うけれど、この構造に気付くと話はすんなり読み込めてきて。これに、心の壁を乗り越えられない恋愛のあり様が絡む。『ノンフィクション』というタイトルが、これが今の小林さんの実感した世界、ということか。

壁がある時代と比べて、壁がなくなった後の方がより閉塞しているという状況の描き方が小林さんの視点。壁があるという閉塞感を感じながらも、声高に何かを言うんでもなく、どこか淡々と過ぎていくのが、今の若い方(小林さん、25歳だそう)の感覚なのかな、と思って見てました。個人的には、恋愛パートよりも「壁がある世界、なくなったあとの世界」の要素をもうちょっと見たかった気もします。
音楽(懐かしい歌謡曲)の使い方があやめ十八番ぽいかな、という気もして、芝居の全体のトーンだともうちょっと違う感じのものの方が効果的だったかもしれない。

とはいえ、2時間をちゃんと最後まで飽きさせないで引っ張ったお力は確かなものだと思うし、旗揚げにしてこれだけのキャスト(女優さんに美少女多数)を集められたのも目を見張る。

ちなみに、以前小林さんはコントをやっていて(コントユニットだったか?)コントの台本を書いていらしたとのことで、作家の長岡(青野竜平さん)と新マネージャーの神宮寺(袋小路林檎さん)とのやりとりがテンポがよくて面白かった。(特に袋小路さん、間合いがいい)

地に足がついた趣のある青木竜平さん、線が細いナイーブな青年像を描いた小林さん。そして、この世界にぐっとリアルな色付けをした奥田努さんと土佐まりなさんのヒロインぶり、と役者さんの生かし方もなかなか達者。

多分いろいろ書きたいことがたくさんあるんだろうなー、と思いながら、きっと公演を重ねていけば小林さんの、新宿公社としての色が明確になるんだろうなと、今後に期待。当日パンフには新宿公社第2回公演2016年夏『凱旋』とありました。

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2016/01/31

心に深くメッセージが沈殿する舞台~ミュージカル『手紙』を見る

東野圭吾さん原作の『手紙』をミュージカル化。犯罪者家族への差別を描きながら、それを遠くの物語でなく、「では、自分たちはどうなのか……?」と観客である私たちに突きつける。テーマは重く、具体的な解決策はない。けれど、考えることから始まるかもしれない……そんな「明かり」が見える舞台。
(以下、ラストシーンについても触れていますので、未見の方はご留意ください)

「自分たちの物語にすること」の仕掛けは演出の藤田俊太郎さんから非常に多彩になされている。それは、新国立劇場小劇場の舞台設置を「舞台=奥側、客席=入口に近い手前側」という通常のものと逆にして、「舞台=入口に近い側、客席=奥側」の配置にしたこと。通常は観客は通らない舞台を通って客席に着く形にすることで、この『手紙』という物語が「私たちの物語」であることを提示する。

そして、この作品が何故ミュージカルであるのか。それは、この重苦しいテーマの中にも「希望の光=歌」として描かれているから。兄の剛志が殺人を犯したことで、弟の直貴はミュージシャンになる夢も絶たれ、やっと就職した先も左遷、さらには子供まで差別の対象となる。それでも微かに感じさせる、差別も何もない世界(=ジョン・レノンの「イマジン」が作品のキーワードともなる)への希望が音楽として降り注ぐ。だからこそ、音楽を奏でるバンドが、ステージの上部=2階部分に位置しているのだ。

高いところから降り注ぐ音楽の元で、見える壁(刑務所の塀)に囲まれた剛志と、見えない壁に囲まれた直貴。これをステージ上のいくつかの箱型のコンテナのような装置で具現化して見せる。

三浦涼介さんは、直貴の苦しみを繊細に表現。三浦さんのパーソナリティーは存じ上げないけれど、身内に深い孤独をたたえているような感覚があって、内面の孤独と、それと共に「求めても求められないものを求める」みたいな切なさが舞台に立ち上っていた気がする。直貴の心の揺れが手に取るように伝わってきて、胸を掴まれたし、ずっと彼の孤独に心が共振した。語弊がある書き方かもしれないけれど、他のキャストのミュージカル的な歌い方と三浦さんの歌い方が異なるのも、直貴の孤独感を浮き彫りにしていたようにも思う。

様々な運命が直貴を襲う中で、塀の中でずっと変わらずにいる剛志の歌声が通奏低音のように響き渡る。無骨で純粋な、しかしそれゆえに人を傷つける存在となってしまった彼。純粋だけれど無垢ではない、という複雑さを吉原光夫さんの剛志は有り体に見せてくれた。

終幕、直貴は剛志のいる刑務所にバンド慰問で現れる。最後、もう一度歌わせて……という曲が「イマジン」。しかし、彼は歌うことができず、去っていく……。「イマジン」を最後に歌えない、というところがキーで(原作でも直貴はイマジンを歌えないまま終わる)、もしかしたら普通のミュージカルなら、「イマジン」を歌っておしまい、という劇化の仕方もあるかもしれない(←ミュージカル的にはその方が普通に盛り上がりそうだ)。でも、あえてそうせず、歌わないことが「イマジン」で歌われるような世界の実現がいかに難しいか、直貴の歩んできた道のりがいかに辛かったかを感じさせる。

そして、最後、直貴はバンドがいるステージ上部にいるのだが、直貴の右手後方の扉(つまりは、劇場の外へと通じるロビーへの扉)が開き、そこから出ていく。これは、藤田さんが師事する蜷川幸雄さんの終幕に搬入口を開ける手法のオマージュのようでもあるが、直貴が私たち観客が帰る雑踏に消えていったようにも見えて、改めて「ああ、これは私たちの物語なのだ」と痛感させられた。

「罪のない者がいれば、石を持てこの人を打て」とキリストは言ったけれど、罪人だけでなく罪人の家族までを打ってしまうのが人間なのか。もちろん殺人は決して許されないことだけれど、ではそれを裁くべきは誰なのか。ラストシーンがクリスマスだけにそんなことも思う。深く心に沈殿するメッセージが届いたし、この作品の描き方の中で最後にどこか希望の微かな光を感じさせる、ミュージカルというものが持つ力も感じた。

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2016/01/24

新派の新しい財産となるべき作品~『糸桜』

市川月乃助さんが歌舞伎から移籍した新派の新作。『糸桜』は「新派の芸」を次代へと継続させるにふさわしい、おそらくこれからも再演を繰り返されるだろうすばらしい新作だった。

河竹登志夫先生の『作者の家』を原作に、河竹黙阿弥の娘、糸(波乃久里子)と、糸の養子となった河竹繁俊(=河竹登志夫先生の父)(市川月乃助)を主人公として描く話。脚本、演出は斎藤雅文さん。

名前のとおり、先代から受け継いでいく家族の「糸」を、6場の時間の変化とともに見せる。

河竹黙阿弥の娘として戯作術を叩き込まれ優れた才能を示しながら、女性ゆえに戯作者にはなれなかった糸。
思わぬ運命の流れから、予期せぬ家族の「糸」を受け継いでいく、繁俊。

この二人の有り様が、歌舞伎の家に生まれた久里子さんと、一般家庭から歌舞伎へ、そして新派へと移籍した月乃助さん自身が重なり合う。現実と虚構の皮膜から、「受け継ぐ思い」が確かに舞台に立ち上がる。
二人の丁々発止のやりとりが大きなドラマを生んだ。

歌舞伎の戯作者の娘の役、ということもあり、ふとした台詞回しにもどこか中村勘三郎さんの面影が宿っていることも感じるのだった。

月乃助さんは、糸を寝かしつけるために歌舞伎の台詞を言う場面などでおかしみも見せながら、戯作者でなく研究者として河竹黙阿弥を次ごうとする苦渋の決意に強い意志をにじませた。

繁俊の妻、みつの大和悠河さんは作中の時間の流れを的確に表現する。
また、メイン3役を取り巻く人たちの厚みが確かに新派の財産であって、この時代の人たちの息吹が伝わって、物語の手触りに実感を与える。瀬戸摩純さんの松井須磨子役が短い出番で印象深く、鴫原桂さんの女中役がその立ち居振る舞いから、今はあまり見られない「よき日本の家庭」を感じさせてもらった。

最初に月乃助さんの新派入団披露には(芝居には出ない)水谷八重子さんが登場。9月に二代目喜多村禄郎を襲名することも発表された。最後に30分の「新春踊り初め」がつく。久里子さんの「雪」は洋楽が交じる趣向だが、この季節らしい美しさと切なさがにじむ。

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2016/01/21

居酒屋ベースボール『ソウサイノチチル』

破天荒な人生を送った父親の葬儀を巡るシチュエーションコメディ。の中に、作・演出のえのもとぐりむさんの死生観が色濃く映し出される。当代から次代へと受け継ぐ想いとは何か……そんなことを考えさせられる作品。佳作だった。

まず感じたのは、非常に脚本として練り上げられているということ。23人もの登場人物のしっかりしたキャラクターつけとシチュエーションコメディとしての緻密な構成。居酒屋ベースボールもえのもとぐりむ作品も初見で、予備知識がない中で見に行ったので、この作品力の高さに「きっと熟練した年配の方が書いた戯曲なんだろうな」と想像していた。終演後調べたらえのもとさんは1986年生まれ、29歳とのこと! これには驚いた。ちょっと言い過ぎかもしれないが、東京サンシャインボーイズ(『12人の優しい日本人』)をシアタートップスで初めて見たときの感覚が蘇った。そのときは「小劇場でこれほどウェルメイドで緻密に作られた芝居が見られるのか!」と驚かされたけれど、そんな感覚に近いものを『ソウサイノチチル』から感じたのだ。

現実の生活の中でも、お葬式というのは非常に特殊な状況で、それまで抑えていた感情が爆発したり、これまで隠れていた本性が見えたりする。(実際、火葬場で「まだ死んでない」とお棺に取りすがった方の話とかも聞いたことがあるし)だからこの舞台で見せられるドタバタのあれこれも絵空事の大げさなものでなく、どこか親近感を覚えられてすっと胸に入ってくる。

そして、葬儀の参加者というグループの外側に、葬儀社社長と彼の友人の植木屋、住職という「二代目」の人たちが存在する。亡き親の思いを受け継いで(住職の親は存命)生きている人たちの姿を描くことで、亡くなった人から人は何を受け取ればいいのか、というテーマがより明確に描かれる。

お通夜の後、亡くなったはずの父親が棺の中から蘇った!? というところで始まる物語。様々な人が語る言葉から、亡くなった父親の人柄が徐々に明らかになる。肉体を失った後も亡き人の想いを知ることで、その人と触れ合い、想いを受け継ぐことができるのだという、えのもとさんのメッセージが伝わってきた。最後の話の落としどころというか、決着のつけ方にも非常に納得がいくものがあった。

キャストでは亡き父親役の船戸慎士さん。「棺の中から蘇った父親」という設定で棺の中で寝ている時間が多く、そのキャラクターを様々な登場人物から語られるという難役だが、イメージを集約する存在の確かさがあった。父親の現在の愛人アユ役の八城まゆさんも「奥さんと対立」という類型に陥ることなく、アユの父親への思いを描いて印象的。宮下貴浩さんの、誠実さが見える葬儀社二代目社長のキャラクターの描き方にも好感が持てた。

最後にもう一つ驚くのが、この公演が「3か月22作品139公演ロングラン公演」の一環であるということだ。これだけの作品を一つ作るだけでもどんなにか大変と思うのに22作連続!? と思うともう想像の範疇を超えている。
22作品一覧の当日パンフを見ると『ソウサイノチチル』とは違う傾向の作品も多そうだ。とにかく、他の作品も見てみたい。そう思わせる力は確実にあった。

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2016/01/17

新しい切り口で見たwits『マクベスThe Tragedy of Mr.&Mrs.Macbeth』

成河さんが旧名の「チョウソンハ」名義で出演するwitsの初公演でシェイクスピアの『マクベス』を演じる。池田有希子さんとの二人芝居で、演出は10年ぶりという西悟志さん。(観劇は1月16日マチネ)

上演時間1時間40分。素舞台、衣装も黒スーツと黒ドレスというシンプルなもの。客席から登場し語り出すのは、漫才スタイルで客席とやり取りしてクイズ(シェイクスピアの生年没年とか、四大悲劇は、とか)や解説など入れながら、マクベスとマクベス夫人(と他バンクォー、マクダフ、マクダフの妻子などいくつかの役を兼ねて)を演じる趣向。
冒頭の漫才スタイルでの(素に近い)トークから、芝居へとふっと一線を越えていく姿に、まずはっとさせられる(←この「落語の枕」的なスタイルは、あやめ十八番の一連の冒頭シーンと通じるものではあるが)。

ダイジェスト的な展開になるか、と思いきや、『マクベス』のドラマが凝縮し、マクベスの生き様がそこにあった。特に終幕。「バーナムの森が動いている~(いわゆる)トゥモロー・スピーチ」がすさまじいほどに真に迫った。

『スポケーンの左手』を見たときも思ったのだけれど、成河さんの舞台を拝見すると、芝居でそこにいるのでなく、「その(役柄の)人物が目の前に立っている」「その人に会っている」という気持ちにさせられる。芝居をしているのでなくて、例えばご飯を食べたり普通の話をしたりする、生きている人物そのものが目の前にいる、と感じさせられる。「リアル」という表現をするのは簡単だけれど、もっと具体的な、生きた人間に会った、とでもいうような感覚。

成河さんのマクベスは、台詞を口で語るのでなく、全身から言葉が出てきているような。

語り口調が「~~じゃん」などの現代語を取り入れているせいもあり(翻訳は松岡和子さん版)、一つの考えにとらわれてしまって心が次第に混迷してしまう人間のあり様に初めて「ああ、人間ってそういうこともあるな……」とシンパシーと切なさを感じたのだった。今までマクベスを何度となく見ているけれど、自分から遠い物語のように感じていたので、自分の身に近い感覚としてとらえられたことは今までなかった。これは、成河さんのマクベスだからこそ、見えてきたものだ。

池田有希子さんも成河さんとは2か月前に会ったばかりというが、やりとりの息も合い、マクベス夫人が王殺害を勧める様子も今まで見たことがない造形だった。
(一つ気になったのは、ダンカン王を演じたとき女性的に演じていたこと。成河さんがマクダフ夫人を演じたときに、男性声のままで女性を演じて違和感はなかった。ダンカン王も無理に男性声にする必要はないけれど、男性として演じた方が効果的だった気がする)

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話が飛ぶが、3年前か、『ロックオペラ ハムレット』公演前に成河さんに取材したときに「これからやってみたいこと」というのを伺った。そのとき
「一人シェイクスピア。シェイクスピアの物語は全体的にみると矛盾があって、矛盾に整合性を取ろうとして作品作りすることが多い。でも、心理を見せる側面とは別に、引いた表現でやれたら面白いのではないか。落語好きとしては、自分なりの落語観とシェイクスピアが合う気がする。だから、シェイクスピアを構成で見せていけたら。シェイクスピアは演じるべき物語でなく、語るべき物語かもしれない」
というようなことをおっしゃっていた。今回の舞台は、西さんの演出ともあいまって、成河さんのシェイクスピアが結実したものでもあったと思う。

そして、この漫才スタイルの『マクベス』が実現できたのも、理屈を通すのでなく、一瞬にしてリアルな人物を舞台上に出現させうる成河さんだからこそ、ともいえる。

漫才スタイルで演じる成河さんのシェイクスピア。今後も続けていって、私の心を揺さぶり続けてほしいと願う。

最後に、もう一つ。気にかかっていること。
作品の冒頭、4幕2場のマクダフ夫人と息子のやりとりから殺害までのシーンを最初に演じ、そこからは1幕~5幕まで演じられていた。この巻き戻るところは構成としてとても効果的だったが、どうしてこういう形にしたのか、私の中では確たる解釈はできていない。(うーん、強いていえば「誓っておいて嘘をつく人は正直な人に吊るされる」→マクベスのこれからたどる運命の予言に当たるとか?)
でも、冒頭から演じないで4幕2場→1幕→2幕……という「構成」にしたところに、今回の上演の肝(?)が隠されている気もする。どこかで機会があったら(あるか?)、ここの解釈をどなたかにお聞きしたい。

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2015/12/29

あやめ十八番ワークショップオーディションを見学しました

昨日はあやめ十八番ワークショップ(WS)オーディションの見学に伺いました。
花組芝居の役者、堀越涼さんが主宰、作・演出する演劇ユニットあやめ十八番の次回公演出演者選出オーディションを兼ねたWSです。
WSに見学者がいるのは結構珍しいことと思うのですが、見る側の人間である私もいろいろ考えることができた貴重な時間でした。

ちなみに私があやめのWSにお邪魔するのは……今度で5回目らしい(笑)。(←結構来てた)
1回目がコチラ、2回目がコチラ、3回目がコチラ、4回目がコチラ。なので1年ぶりくらいの参加でした。ワークショップの流れとかは前回などのブログを参照のこと。

はじめの20分くらい、堀越さんが劇団の目的、目指すものをだーっと語ります(不思議な体の動きしてるなー、と思ったのですが、そうするとリラックスして喋れるよ、の実例らしい)。その「圧」が強い。で、自己紹介、各組に分かれて堀越さんのオリジナル台本の一部を演じて演出をつける、最後に全組の発表。この回では来年5月に再演される『江戸系諏訪御寮』の中の夫婦の会話を演じました。


堀越さんが考えるリアルな芝居にたどり着くまでの過程を見せてもらいました。
ちょうど何日か前に『ドッグファイト』を見て、自分は芝居の何を見てリアリティを感じるのか、ということを考えていたので(←このことは、一つ前のブログの最後の方に書きました)、自分的にはタイムリーに見学させてもらった気がします。

「演技をしていないところを見せる。そのためにはテクニックが必要」
ということで、ナマなリアルさでなくて「見世物としてのリアル」を見せるためにはどうしたらいいか。

相手役との台詞の受け渡し方や台詞が聞こえるかどうか、などの具体的なことから、「なんかぐっと来ない」とかいうのまで、いろんなアドバイスをしながら引き出していこうとします。元々役者さんでいらっしゃるから、非常に実践的なアドバイスが出せるんですね。
あと、印象に残ったのは「この会話中に何も起こらないように見えて、その中で感情がボンボン爆発するものが見たい」ということかな。

芝居がなんでリアルでないといけないかというと、それは見る人にとって舞台で演じられていることが絵空事でなく、その場を共有する、共感する、追体験するようでないといけないということで。そういう共感性を大事に作ってらっしゃるんだなと思います。

そしてコミュニケーションするということ。「こうしたら?」という演出に対して、いかに柔軟になれるか。役者は変化し続けるのが仕事……と堀越さんはおっしゃってましたが、演じている役者さん同士のコミュニケーション、のみならず、演出家対役者のコミュニケーション、さらには演者対観客のコミュニケーションを取ることを大事にしてらっしゃるんだなと思います。(演者対観客のコミュニケーション、という視点で、WSの見学者を入れてるんだな、とも)
そういう意味では、役者さん、のみながらず見学者も含め全方向とコミュニケーションを取るスタイルでやってらっしゃるWSなので、、堀越さん、身を削ってるなあ、渾身だなあ……と思います。私は一見学者にすぎないけれども、参加者の方たちが何か心にさざ波を残して帰っていってほしいなあ、と願う。


役者さんもそうだけれども、観客の立場としても「このスタイルはダメ」とかじゃなく、これもアリと受け止めて柔軟に面白がることができる心が必要だし、そうすることが舞台と客席との一体化を生むんだな、と改めて思いました。

WSは本日で終了。次回公演は5月27日~6月5日、『江戸系 諏訪御寮(再演)』『ゲイシャパラソル(新作)』の二本立て。

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