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2016/01/31

心に深くメッセージが沈殿する舞台~ミュージカル『手紙』を見る

東野圭吾さん原作の『手紙』をミュージカル化。犯罪者家族への差別を描きながら、それを遠くの物語でなく、「では、自分たちはどうなのか……?」と観客である私たちに突きつける。テーマは重く、具体的な解決策はない。けれど、考えることから始まるかもしれない……そんな「明かり」が見える舞台。
(以下、ラストシーンについても触れていますので、未見の方はご留意ください)

「自分たちの物語にすること」の仕掛けは演出の藤田俊太郎さんから非常に多彩になされている。それは、新国立劇場小劇場の舞台設置を「舞台=奥側、客席=入口に近い手前側」という通常のものと逆にして、「舞台=入口に近い側、客席=奥側」の配置にしたこと。通常は観客は通らない舞台を通って客席に着く形にすることで、この『手紙』という物語が「私たちの物語」であることを提示する。

そして、この作品が何故ミュージカルであるのか。それは、この重苦しいテーマの中にも「希望の光=歌」として描かれているから。兄の剛志が殺人を犯したことで、弟の直貴はミュージシャンになる夢も絶たれ、やっと就職した先も左遷、さらには子供まで差別の対象となる。それでも微かに感じさせる、差別も何もない世界(=ジョン・レノンの「イマジン」が作品のキーワードともなる)への希望が音楽として降り注ぐ。だからこそ、音楽を奏でるバンドが、ステージの上部=2階部分に位置しているのだ。

高いところから降り注ぐ音楽の元で、見える壁(刑務所の塀)に囲まれた剛志と、見えない壁に囲まれた直貴。これをステージ上のいくつかの箱型のコンテナのような装置で具現化して見せる。

三浦涼介さんは、直貴の苦しみを繊細に表現。三浦さんのパーソナリティーは存じ上げないけれど、身内に深い孤独をたたえているような感覚があって、内面の孤独と、それと共に「求めても求められないものを求める」みたいな切なさが舞台に立ち上っていた気がする。直貴の心の揺れが手に取るように伝わってきて、胸を掴まれたし、ずっと彼の孤独に心が共振した。語弊がある書き方かもしれないけれど、他のキャストのミュージカル的な歌い方と三浦さんの歌い方が異なるのも、直貴の孤独感を浮き彫りにしていたようにも思う。

様々な運命が直貴を襲う中で、塀の中でずっと変わらずにいる剛志の歌声が通奏低音のように響き渡る。無骨で純粋な、しかしそれゆえに人を傷つける存在となってしまった彼。純粋だけれど無垢ではない、という複雑さを吉原光夫さんの剛志は有り体に見せてくれた。

終幕、直貴は剛志のいる刑務所にバンド慰問で現れる。最後、もう一度歌わせて……という曲が「イマジン」。しかし、彼は歌うことができず、去っていく……。「イマジン」を最後に歌えない、というところがキーで(原作でも直貴はイマジンを歌えないまま終わる)、もしかしたら普通のミュージカルなら、「イマジン」を歌っておしまい、という劇化の仕方もあるかもしれない(←ミュージカル的にはその方が普通に盛り上がりそうだ)。でも、あえてそうせず、歌わないことが「イマジン」で歌われるような世界の実現がいかに難しいか、直貴の歩んできた道のりがいかに辛かったかを感じさせる。

そして、最後、直貴はバンドがいるステージ上部にいるのだが、直貴の右手後方の扉(つまりは、劇場の外へと通じるロビーへの扉)が開き、そこから出ていく。これは、藤田さんが師事する蜷川幸雄さんの終幕に搬入口を開ける手法のオマージュのようでもあるが、直貴が私たち観客が帰る雑踏に消えていったようにも見えて、改めて「ああ、これは私たちの物語なのだ」と痛感させられた。

「罪のない者がいれば、石を持てこの人を打て」とキリストは言ったけれど、罪人だけでなく罪人の家族までを打ってしまうのが人間なのか。もちろん殺人は決して許されないことだけれど、ではそれを裁くべきは誰なのか。ラストシーンがクリスマスだけにそんなことも思う。深く心に沈殿するメッセージが届いたし、この作品の描き方の中で最後にどこか希望の微かな光を感じさせる、ミュージカルというものが持つ力も感じた。

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2016/01/24

新派の新しい財産となるべき作品~『糸桜』

市川月乃助さんが歌舞伎から移籍した新派の新作。『糸桜』は「新派の芸」を次代へと継続させるにふさわしい、おそらくこれからも再演を繰り返されるだろうすばらしい新作だった。

河竹登志夫先生の『作者の家』を原作に、河竹黙阿弥の娘、糸(波乃久里子)と、糸の養子となった河竹繁俊(=河竹登志夫先生の父)(市川月乃助)を主人公として描く話。脚本、演出は斎藤雅文さん。

名前のとおり、先代から受け継いでいく家族の「糸」を、6場の時間の変化とともに見せる。

河竹黙阿弥の娘として戯作術を叩き込まれ優れた才能を示しながら、女性ゆえに戯作者にはなれなかった糸。
思わぬ運命の流れから、予期せぬ家族の「糸」を受け継いでいく、繁俊。

この二人の有り様が、歌舞伎の家に生まれた久里子さんと、一般家庭から歌舞伎へ、そして新派へと移籍した月乃助さん自身が重なり合う。現実と虚構の皮膜から、「受け継ぐ思い」が確かに舞台に立ち上がる。
二人の丁々発止のやりとりが大きなドラマを生んだ。

歌舞伎の戯作者の娘の役、ということもあり、ふとした台詞回しにもどこか中村勘三郎さんの面影が宿っていることも感じるのだった。

月乃助さんは、糸を寝かしつけるために歌舞伎の台詞を言う場面などでおかしみも見せながら、戯作者でなく研究者として河竹黙阿弥を次ごうとする苦渋の決意に強い意志をにじませた。

繁俊の妻、みつの大和悠河さんは作中の時間の流れを的確に表現する。
また、メイン3役を取り巻く人たちの厚みが確かに新派の財産であって、この時代の人たちの息吹が伝わって、物語の手触りに実感を与える。瀬戸摩純さんの松井須磨子役が短い出番で印象深く、鴫原桂さんの女中役がその立ち居振る舞いから、今はあまり見られない「よき日本の家庭」を感じさせてもらった。

最初に月乃助さんの新派入団披露には(芝居には出ない)水谷八重子さんが登場。9月に二代目喜多村禄郎を襲名することも発表された。最後に30分の「新春踊り初め」がつく。久里子さんの「雪」は洋楽が交じる趣向だが、この季節らしい美しさと切なさがにじむ。

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2016/01/21

居酒屋ベースボール『ソウサイノチチル』

破天荒な人生を送った父親の葬儀を巡るシチュエーションコメディ。の中に、作・演出のえのもとぐりむさんの死生観が色濃く映し出される。当代から次代へと受け継ぐ想いとは何か……そんなことを考えさせられる作品。佳作だった。

まず感じたのは、非常に脚本として練り上げられているということ。23人もの登場人物のしっかりしたキャラクターつけとシチュエーションコメディとしての緻密な構成。居酒屋ベースボールもえのもとぐりむ作品も初見で、予備知識がない中で見に行ったので、この作品力の高さに「きっと熟練した年配の方が書いた戯曲なんだろうな」と想像していた。終演後調べたらえのもとさんは1986年生まれ、29歳とのこと! これには驚いた。ちょっと言い過ぎかもしれないが、東京サンシャインボーイズ(『12人の優しい日本人』)をシアタートップスで初めて見たときの感覚が蘇った。そのときは「小劇場でこれほどウェルメイドで緻密に作られた芝居が見られるのか!」と驚かされたけれど、そんな感覚に近いものを『ソウサイノチチル』から感じたのだ。

現実の生活の中でも、お葬式というのは非常に特殊な状況で、それまで抑えていた感情が爆発したり、これまで隠れていた本性が見えたりする。(実際、火葬場で「まだ死んでない」とお棺に取りすがった方の話とかも聞いたことがあるし)だからこの舞台で見せられるドタバタのあれこれも絵空事の大げさなものでなく、どこか親近感を覚えられてすっと胸に入ってくる。

そして、葬儀の参加者というグループの外側に、葬儀社社長と彼の友人の植木屋、住職という「二代目」の人たちが存在する。亡き親の思いを受け継いで(住職の親は存命)生きている人たちの姿を描くことで、亡くなった人から人は何を受け取ればいいのか、というテーマがより明確に描かれる。

お通夜の後、亡くなったはずの父親が棺の中から蘇った!? というところで始まる物語。様々な人が語る言葉から、亡くなった父親の人柄が徐々に明らかになる。肉体を失った後も亡き人の想いを知ることで、その人と触れ合い、想いを受け継ぐことができるのだという、えのもとさんのメッセージが伝わってきた。最後の話の落としどころというか、決着のつけ方にも非常に納得がいくものがあった。

キャストでは亡き父親役の船戸慎士さん。「棺の中から蘇った父親」という設定で棺の中で寝ている時間が多く、そのキャラクターを様々な登場人物から語られるという難役だが、イメージを集約する存在の確かさがあった。父親の現在の愛人アユ役の八城まゆさんも「奥さんと対立」という類型に陥ることなく、アユの父親への思いを描いて印象的。宮下貴浩さんの、誠実さが見える葬儀社二代目社長のキャラクターの描き方にも好感が持てた。

最後にもう一つ驚くのが、この公演が「3か月22作品139公演ロングラン公演」の一環であるということだ。これだけの作品を一つ作るだけでもどんなにか大変と思うのに22作連続!? と思うともう想像の範疇を超えている。
22作品一覧の当日パンフを見ると『ソウサイノチチル』とは違う傾向の作品も多そうだ。とにかく、他の作品も見てみたい。そう思わせる力は確実にあった。

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2016/01/17

新しい切り口で見たwits『マクベスThe Tragedy of Mr.&Mrs.Macbeth』

成河さんが旧名の「チョウソンハ」名義で出演するwitsの初公演でシェイクスピアの『マクベス』を演じる。池田有希子さんとの二人芝居で、演出は10年ぶりという西悟志さん。(観劇は1月16日マチネ)

上演時間1時間40分。素舞台、衣装も黒スーツと黒ドレスというシンプルなもの。客席から登場し語り出すのは、漫才スタイルで客席とやり取りしてクイズ(シェイクスピアの生年没年とか、四大悲劇は、とか)や解説など入れながら、マクベスとマクベス夫人(と他バンクォー、マクダフ、マクダフの妻子などいくつかの役を兼ねて)を演じる趣向。
冒頭の漫才スタイルでの(素に近い)トークから、芝居へとふっと一線を越えていく姿に、まずはっとさせられる(←この「落語の枕」的なスタイルは、あやめ十八番の一連の冒頭シーンと通じるものではあるが)。

ダイジェスト的な展開になるか、と思いきや、『マクベス』のドラマが凝縮し、マクベスの生き様がそこにあった。特に終幕。「バーナムの森が動いている~(いわゆる)トゥモロー・スピーチ」がすさまじいほどに真に迫った。

『スポケーンの左手』を見たときも思ったのだけれど、成河さんの舞台を拝見すると、芝居でそこにいるのでなく、「その(役柄の)人物が目の前に立っている」「その人に会っている」という気持ちにさせられる。芝居をしているのでなくて、例えばご飯を食べたり普通の話をしたりする、生きている人物そのものが目の前にいる、と感じさせられる。「リアル」という表現をするのは簡単だけれど、もっと具体的な、生きた人間に会った、とでもいうような感覚。

成河さんのマクベスは、台詞を口で語るのでなく、全身から言葉が出てきているような。

語り口調が「~~じゃん」などの現代語を取り入れているせいもあり(翻訳は松岡和子さん版)、一つの考えにとらわれてしまって心が次第に混迷してしまう人間のあり様に初めて「ああ、人間ってそういうこともあるな……」とシンパシーと切なさを感じたのだった。今までマクベスを何度となく見ているけれど、自分から遠い物語のように感じていたので、自分の身に近い感覚としてとらえられたことは今までなかった。これは、成河さんのマクベスだからこそ、見えてきたものだ。

池田有希子さんも成河さんとは2か月前に会ったばかりというが、やりとりの息も合い、マクベス夫人が王殺害を勧める様子も今まで見たことがない造形だった。
(一つ気になったのは、ダンカン王を演じたとき女性的に演じていたこと。成河さんがマクダフ夫人を演じたときに、男性声のままで女性を演じて違和感はなかった。ダンカン王も無理に男性声にする必要はないけれど、男性として演じた方が効果的だった気がする)

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話が飛ぶが、3年前か、『ロックオペラ ハムレット』公演前に成河さんに取材したときに「これからやってみたいこと」というのを伺った。そのとき
「一人シェイクスピア。シェイクスピアの物語は全体的にみると矛盾があって、矛盾に整合性を取ろうとして作品作りすることが多い。でも、心理を見せる側面とは別に、引いた表現でやれたら面白いのではないか。落語好きとしては、自分なりの落語観とシェイクスピアが合う気がする。だから、シェイクスピアを構成で見せていけたら。シェイクスピアは演じるべき物語でなく、語るべき物語かもしれない」
というようなことをおっしゃっていた。今回の舞台は、西さんの演出ともあいまって、成河さんのシェイクスピアが結実したものでもあったと思う。

そして、この漫才スタイルの『マクベス』が実現できたのも、理屈を通すのでなく、一瞬にしてリアルな人物を舞台上に出現させうる成河さんだからこそ、ともいえる。

漫才スタイルで演じる成河さんのシェイクスピア。今後も続けていって、私の心を揺さぶり続けてほしいと願う。

最後に、もう一つ。気にかかっていること。
作品の冒頭、4幕2場のマクダフ夫人と息子のやりとりから殺害までのシーンを最初に演じ、そこからは1幕~5幕まで演じられていた。この巻き戻るところは構成としてとても効果的だったが、どうしてこういう形にしたのか、私の中では確たる解釈はできていない。(うーん、強いていえば「誓っておいて嘘をつく人は正直な人に吊るされる」→マクベスのこれからたどる運命の予言に当たるとか?)
でも、冒頭から演じないで4幕2場→1幕→2幕……という「構成」にしたところに、今回の上演の肝(?)が隠されている気もする。どこかで機会があったら(あるか?)、ここの解釈をどなたかにお聞きしたい。

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