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2015/08/15

花組HON-YOMI芝居『かもめ』2回目

花組芝居のリーディングの枠を超えたリーディング芝居『かもめ』。どうしてももう1回見たくなって、14日ソワレに足を運ぶ。
リーディング形式でなく、動きもいわゆる普通の芝居として演出されているのだけれど、今回の公演でどうしても「(台本を持っての)リーディング」でないと成立しないところが一つあって。
終幕、絶望したコースチャが自分の書いた本を破るところ。それを、美斉津さんがここまでリーディングとして読んできた『かもめ』の台本を1枚1枚破っている。多分、湖畔の虫の音とか、多分全編音が流れている作品でここだけ音がなく、しーんとした空間にリーディングの台本を破っている音が響く。行為としては自作の本を破っているのだけれど、『かもめ』の台本を破ることで、彼が劇中でそれまでたどってきたすべてを1枚1枚否定しているのが見て取れて、ぞくっとした。
この効果! これはこのHON-YOMI芝居でしか表現しえない演出で、加納さんの技が冴えるところだなあと思う。

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2015/08/10

花組HON-YOMI芝居『かもめ』(花組芝居)

8月8日ソワレで観劇。初めて『かもめ』の全容に触れた、と思った。もちろんチェーホフの『かもめ』は今まで何度も見ているけれど、正直に言うとすごく惹かれる題材ではなかった。11年前の花組芝居のリーディング公演(HON-YOMI芝居という)は見られなかったので、花組版としても今回初見。4幕の長尺を1時間25分に凝縮して見せているから……ということだけでなく、各登場人物の心のベクトルが克明に伝わってきて、その心模様が私には非常に面白かったのだ。

花組芝居のアトリエでの公演なので、ステージと客席は同じ平面で、アクティングスペースの後ろは鏡面。これが、『かもめ』の舞台である湖面の反射のようでもあり、あるいは登場人物たちの内面を鏡に映し出しているようにも見えて効果的だ。私が座った最後列から見ると、登場人物たちも私たち観客に混ざって劇中劇を見ているようにも見える。

個人的に印象的なのは登場人物が最初に一堂に会する場面(劇中劇を演じる前あたりか)。登場人物のキャラクターや思いが何層にも重なりつつ、それぞれのベクトルを示す。朗読劇という形なのだけれど(でも、今回は台本は手にしていたけれど、演技としてはいわゆる「朗読劇スタイル」に縛られないものかな)視覚的にも非常に鮮やかで……実際には衣裳は黒なのだけれど、何だか目の前にいろんな色が見えたような気になった。

さて、「ベクトル」という言葉を使ったが、『かもめ』で出てくる登場人物たちはそれぞれ一方通行の思いを抱えている人が大半だ。そして、女優さんが演じる場合と比べて、花組芝居で男性が女形で演じることによって思いがより純化したものとして伝わってきた気がするのだ。女形といっても、メイクもかつらもなく、衣装もユニセックスな感じだけれど。

加納幸和さんの大女優アルカージナは身を投げ捨ててトリゴーリンにすがりつく。そして「これで、私のものだ」となった後の変わり様も含めて、アルカージナという女性の輪郭が非常にリアルだ。そして、二瓶拓也さんのニーナ。耐えること、絶望、の後に自分の足で立って歩こうとする凛としたものが見える。堀越涼さんのマーシャが冒頭の登場の一瞬で空間を切り裂いているようなイメージがあってハッとしたのだけれど、コースチャへの片思いが切ないというよりももっと強く昏いものになっていたように思う。それぞれに、女性ではなかなか表現し得ない女性性があって、女性の自分も改めて気づかされるところが多いというか。でも、それが花組芝居が『かもめ』というリアリズム演劇をやる意味の一つではないか、と思う。(※8日ソワレの終演後に加納さんがご挨拶で「花組芝居でかぶきをやっているが、役者は皆それぞれに大学などでリアリズム演劇を学んできた者たちなので、『かもめ』をやってもいいんじゃないかと思った」という感じのことを言ってらした)

リアリズムといえば、コースチャは今でいうところの中二病みたいだなあ(笑)とも思って(←美斉津恵友さんはこういう役どころが似合いますね、なぜだか)チェーホフ作品の現代に通じる部分も改めて感じた。小林大介さんのトリゴーリンは揺れ動く様に色気があり、登場人物たちの中で職業(医者)的な冷静さを持ちつつ一人超越した存在であるドールンの桂憲一さんがとても魅力的だった(そういえば、前作の『夢邪想』に続いて医者の役)。

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2015/08/02

雑感『雑種 晴姿』(あやめ十八番)(付・アフタートークにお邪魔しました)

先月末はあやめ十八番の番外公演『雑種 晴姿』。(22日初日公演と、25日は途中から拝見)25日の主宰堀越涼さんのアフタートークにも登壇させていただいたので、その話もちょっと。

劇場に入ると神棚を模したセットが舞台いっぱいに。オムニバス作品ということだが、全体的には大きい流れがあって、神社の参道にあるお団子屋さんを営む母親と三姉妹(父親は入院中で不在)の一家が過ごす四季折々を軸に、不登校になった三女と男子高校生との淡い恋? や神社の境内にいる占い師や剣道場、近くの喫茶店のマスターの話、などが絡む全15話の連作。

アフタートークに登壇したときに神棚のセット上に上がらせていただいたのだけれど、神棚の中に入るというのは(形式上でも)何か大きいものに守られているという感覚があるなあ、と思う。そういう「神様の氏子」という意識がここにいる人たちの大ざっぱな共通項か。

堀越さんはパンフレットのインタビューでも「変わらない日々を書きたい」という話をされていたけど、変わらない日常に見えてもやっぱりちょっとずつの変化があって。それは、場面緘黙症だった少年時代の自分に向かい合おうとする青年の心の変化だったり、あるいは三女と高校生との恋だったり。大波が襲いかかるのでなくさざなみのような変化であっても 「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」と感じられる、人間の営みがそこにはある。

変わらない日々、といっても(全然作中には出て来ないけど)おばあちゃんとかおじいちゃんとかのからの代替わりがあって今のこの日々があるはずで。変わらぬ日々の中での最大の変化は、やはりそこにいる大事な人の不在、死だと改めて思う。

作中のエピソードに、「マスターが喫茶店を始めたきっかけが、亡くなった奥さんが夢枕に立ったことだった……」というのがあって、初日に片桐はづきさん演じる奥さんが泣いてらしたのを拝見して「夢の中だったら奥さんは泣かないんじゃない?」と思って、終演後に打ち合わせ兼で話をしているときその理由はお聞きしたところ、「僕が泣いてるところが見たかったから、そうして、と演出した」とのことだった。
まあ、確かに、これが夢であったなら奥さんは泣かないで話すだろうけど、もし夢じゃなくて本当に奥さんがあの世から出て来て旦那さんと話してたら、そら泣くよね……とも思う。
非常に大ざっぱに言うと、無神論的に考えれば死=永遠の別れ、だけど、神様の氏子として集う人々たちには生と死の境目さえも曖昧で、亡くなった方とも今もつながり合うことができる。だから、『雑種 晴姿』で描かれている人たちのそれぞれのつながり具合が、愛しい。

もう一つそう感じるのは、入院中のお父さんの存在だ。劇中では出てこないが、芝居の最後の方では仮退院が認められたところまで描かれる。前に『淡仙女』でやはりお団子屋さんの一家の話を取り上げたときのお父さん役は水下きよしさんだった。水下さんとよく一緒に芝居をされていた井上啓子さんがお母さん役を演じているということもあり、頭の中に思い浮かぶ「お父さん」のイメージは水下さんだ。(アフタートークでこの話も伺ったけれど、水下さんお一人をイメージしているのでなく、水下さん含め何人かからインスパイアされてこの人物を作っているとのこと)水下さんは昨年他界されたから、今、直接お会いすることはできないけれど、でも、こういう形ででも存在に触れられるのは不思議でもあり、嬉しいことでもある。


さて、アフタートークで「堀越さんの手がきれい」エピソード(笑)を聞いたけれど、女性を描くにしても男性には珍しい繊細な手つきで扱われているのも特徴的だ。ものの大きさのたとえで「化粧ポーチくらい」……ってなかなか男性は言わないよね(笑)とも思うし。「髪をすく」とか私の日常語にはないのでいちいちハッとするのだけれど、井上さん演じるお母さんを軸として、長女=金子侑加さん、次女=大森茉利子さん、三女=小口ふみかさんのキャラクターが明確で、しかも家族的なつながりが感じられるのがいい。

前回は振付を担当していたミヤタユーヤさんが今回は俳優として登場。場面緘黙症だった自分に向かい合って「(仲間に)入れてー!」と叫ぶシーンが、必死で演じてらっしゃる(であろう)ミヤタさんご自身と重なって感じられる。そういう俳優専門でない方しか出せない色合いを引き出すのが、堀越さんはお上手だなあ、とも思う。熊野善啓さんの愛情深い佇まいと大塚尚吾さんの深みのある演技、岡本篤さんの芝居の集中力など、際立った方々が揃ってらした。以前も書いたと思うけど、堀越さんが描く「男の人のダンディズム」を体現するのが笹木皓太さんはお上手だなあ、と。笹木さんと、金子さんが構成員として加わったことで、また作品の彩りはより色濃いものになるのだろうか。

あ、もう一つ。狐娘とか、夢枕の奥さんとか「この世ならぬ」存在をそう見せる照明も秀逸で、スタッフワーク含めて継続して作品を作っている力は発揮されるなあ、と思った。

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