« 2015年3月 | トップページ | 2015年6月 »

2015/04/13

あやめ十八番『長井古種 日月』アフタートーク(11日13時)

あやめ十八番『長井古種 日月』4月11日13時公演終了後のアフタートークに、主宰の堀越涼さんのお話を伺うトークゲストとして登壇させていただきました(司会に副代表の大森茉利子さん)。
元々は裏方ですのでステージに上がることはめったにないのですが、ステージに上がってまず感じたのがお客様の空気がとてもウェルカムであたたかいものであったこと。あやめ十八番という演劇団体とお客様がとてもよい共有をなさっているのが伝わってきました。なので、私も部外者ではありますがリラックスして、お話を伺うことができました。

いろいろ貴重なお話が聞けたと思うので、記録としてざっくりまとめておきますね(ざっくりと言いながら、十分長い)。そして当然、終演後のアフタートークなので見てる方を前提に話してます。未見の方はご注意くださいませ。

***
『長井古種 日月』を客席から見た印象から、いくつかキーワードを挙げて聞いていくことにしました。
まずは「丸いもの」。

客席から見ると美術の舞台後方の巨大な月やオープンリール、ミラーボール、けん玉など丸いものがたくさん目に入るが、この発想は?

「あやめ十八番は公演タイトルはあやめの品種から取っている。名前を決めるときは作品内容とかは決まってない。次回の『伊勢系薄化粧』もどうなるかわからない。多分『薄化粧』っぽい作品になるんでしょう(笑)。『日月』は次回SFにしたいとは思っていたので、一番SFぽい名前の『日月』にした。芝居はチラシのデザインから作られていく。音楽監督の吉田能がチラシのデザインをしていて、“ビビッドにしてくれ”と言ったら一番最後に持ってのが今のチラシ。“あっ、この方向で行こう”と思った。吉田のデザインのイメージから舞台美術のところに行き、最後に演出家の堀越が出てくる。そして、オープンリールが肝になった。(お客様に)オープンリール、知ってる人~?(※知らない方の方が多かったことに、個人的にビックリ)音楽の吉田悠と吉田匡が(オープンリール式の録音機器を改造して楽器にしている)Open Reel Ensembleというバンドを組んでいるんです。そのライブがたまたま稽古場の近くのショッピングモールでやってると知って、冷やかしに行ったんです。一番前で見た(笑)。そしたらそれが素晴らしくて、“『日月』の最後の1ピースはこれだ”となったんです」

円形のものは閉ざされている状態の象徴のようにも受け取れるが、そういう意味もある?

「潜在的なイメージではそういうのがあったかもしれない」(←あまり意識はされてなかったようです)

堀越さんの作品は閉ざされた空間のものが多いが。

「閉ざされた空間が好きなんですよ(笑)。他の作演の人はどうやって神様を描かないで作品が作れるんだろうと思うんですが(笑)、僕の作品には神様やそれを信じている人たちのコミュニティが出てくる。作品を作るとき、ただステップするだけでなくジャンプアップする瞬間を作るのに、それらが必要になってくる。
僕の実家が神宮の参道でお団子屋をやっていて、神様が非常に近いところにある。氏子と呼ばれていて、神様が救ってくれると言われているんですね。閉ざされた空間に18歳までいて、その後12年は東京にいる。実家を取り巻くコミュニティを客観視できるようになったものを描いていると思う」

今回の作品だと、「美しい民」と呼ばれる、神様に選ばれた民であることの息苦しさも描いているが……。

「宗教というものを僕は描くんですが、なぜだろうと自分でも一回考えてみた。僕には思想とか、世の中の出来事に対してこうあるべきだという信条がないんです。そんな中で唯一宗教が僕にとって興味があること。ただ、神道ですから八百万の神のような考え方でいたい、偏りたくないと思う。だから、今回アーミッシュを描いているが、アーミッシュを否定する作品でもないし、クリスチャンを否定する作品でもない。宗教に興味があって、取り扱っているけれど、そこには思想を入れない。なるべくドラマのために作ろうとは思う」

「人間は大きく変わらない」という台詞が何度か出てくるが、今回のユニットとしては新機軸となる作品を拝見して、堀越さんにとって「大きく変わらない」もの、根本にあるものは「和」なのではないかと思った、とお聞きすると。

「日本人であるということは非常に意識しないとならないし、僕が花組芝居という歌舞伎のオマージュをやっている劇団にいるので、歌舞伎にしたいわけですね。わからないと思いますけど、鸛先生が“枷をはめられて生きてきた人間が、自由になってのうのうと、生きていかれるはずがない”という台詞はきれいな七五調の文体で書かれている。“歌舞伎をイメージしてやって”と言ってるんです。月夜の台詞の“誰の身体も浮いていた、地に足付かぬ闘争の日々”というのも、(堀越さん立ち上がって)“誰の身体も浮いていた(トン、と足をついて)地に足つかぬ……”とやると気持ちいい。気持ちいい部分を残しておきたいんです。気持ちいい部分とリアルにやる部分は意識して作っている。僕なりに歌舞伎でした(笑)」

***
もう一つのキーワードは「対」。対になっているイメージのものが多い。朝日と月夜という双子もそうだし、冒頭の月夜と隼も対になっている。一番大きいのは、日月村というコミュニティと最小単位である家族のコミュニティという大小のコミュニティの対比かと。

「なんていい見方なんでしょう(笑)(←なんだか嬉しそうだった(笑))。基本的には作劇するときは言葉遊びから始まるので、『日月』という太陽と月が対になっているワードから連想していった。双子というのもシンプルな連想ですけど」

ここから家族をなぜ描くか、というの話になり……。
「家族が出てくるのは、やっぱりパーソナルなものが描きたいから。パーソナルなドラマを描くために大きな村があり、その外に宇宙人がいて、ということでドラマを動かしているけど、基本的には人間の心情を描きたいなと思うんです。家族ってうまくいかないものじゃないですか?……うちの家族はうまくいってますよ、非常に仲よく、ドワーフのように暮らしているんです(笑)。どこの家族も必ず何かしらの問題がある。でも、家族というコミュニティ全員で頑張ろう!という話がいいし、最終的にパーソナルな問題に収縮していくものがやりたいんです。“本当の幸せって何だろう”っていうのがあやめ十八番のテーマなので」

あやめ十八番は家族が出てくる作品が多いですよね? という問いに。
「第二回『淡仙女』、第三回『江戸系 諏訪御寮』と今回。僕、食卓を囲むっていうのが好きなんです。お客様に“食卓を囲むシーンがいいですね”と言われて、“あっ、食卓を囲むっていいな”と思ったんです。すごく素直だから(笑)。だから、今回も横並びですけど、一緒に食事するシーンを入れました」

というあたりで、タイムアップ。
「これ以上やると怒られますね。僕怒られるのが一番嫌いなんで」と、最後はグッズの紹介などして終了しました。

***
実は三番目のお題「兎」というのも考えていまして。初の外部演出だった『うさぎとシーラカンス』と連続して兎が出てくること、また月と兎の関係、さらに、ぴょんぴょん飛び跳ねるイメージを持つ兎が小さいコミュニティから宇宙までも貫いていくイメージについて話したかった。
あっ、「丸いもの」のところで、「地球の自転と逆回りで一日で一周するお母さん」という美しいイメージがどこから来たのかも聞きたかったのですが……。
も一つ言うと、「丸」対」「兎」で物語全体のダイナミズムとしてリズム感が生まれ、それが生演奏による音楽の表現とマッチしていた、という話もしたかったんですが、時間切れでした(いえ、予定の15分の2倍くらい話したんですけど、話したいことが多すぎた……)→このあたり、至らなくて申し訳ない。

ともあれ、非常に興味深いお話が伺えました。ご来場の皆様、あやめ十八番とご出演の皆様、ありがとうございました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

あやめ十八番『長井古種 日月』観劇しました

4月9日初日と11日13時の回を観劇(→そういえば、あやめ十八番で同じ作品を2回見るのは初めて)。

本公演では第五回、番外的な公演を含めると十本目の公演で作・演出を務める堀越涼さんが「殻を破りたい」と今までの和のテイストから一転して「SF」を描くというもの。
日暮里d-倉庫に行くのは私は初めてだが、あやめ十八番としてもプロセニアムの舞台(=客席から見て額縁のように縁どられている舞台)は初とのこと。

いわゆる空想科学小説的なSFではなくて、「すこしふしぎ」くらいのファンタジーな舞台。日本版アーミッシュのような敬虔な生き方をする「日月村」という場所が舞台で、教義に反発し、村の内側から革命を起こそうとする双子の兄弟、三条朝日と三条月夜とその一家を描く。さらには月夜が見ている映画の登場人物に宇宙人たちが絡み……と非常に情報量が多い舞台だ。

話を伝えるというよりも、作り手の思いを伝えるということをメインとしている舞台で、初めは言葉のシャワーに圧倒されるものの、不思議とどんどん話が進んでいくうちに確かに感情を刺激されて。
子供を思う母親の気持ち(=花村雅子さんがとても母親としての情感があふれていて好演)、家族の姿、そして、中から革命を起こそうとしなくてもいいのに(日月村を離れれば革命を起こす必要はない)それでもどうしても闘争をやめられない双子の空しさ……(空しいけど、でも、人間ってそういうところがあるよね、とも思う)。いろいろと情緒的に駆り立てられるものがあった。

客席通路部分も使った立体的な空間の使い方の巧みさ、全編生演奏でいわゆるSE(効果音)も全部生音でやっているという贅沢さも含めて、「芝居を見た」感がある公演だった。

闘争に向かわざるを得なくなる切なさを映し出す双子の美斉津恵友さん、堀越涼さん、身体能力に優れた笹木皓太さん、ある種のカリスマを感じさせる和知龍範さん、声に色気がある熊野善啓さんなどキャストも力ある方が揃う。

※4月11日のアフタートークにゲストとして登壇し、そのときに『長井古種 日月』について考えたこともお話させていただいたので、そちらは別項にまとめます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/04/05

遅ればせながら『サンタ・エビータ』

水夏希さん主演のリーディングドラマ『サンタ・エビータ』を観劇(3月28日)。大変素晴らしかったので遅ればせながらブログアップ。

最近は朗読劇の上演が多いけれど、普通の「台本を手にして読む」タイプの朗読劇とは一線を画すものだった。思えば、今回公演前にルッキュシアターで水さんに単独インタビューをさせていただいたのだが(配信終了)、水さんがエビータに対する共感でとても熱が入ったものだったのだ。朗読劇に出演する方ってここまで作品に熱がこもってる方って少ない気がする(印象だけど→やっぱり本公演で演じるものではないので……)ので、ちょっと驚いたことを覚えている。

そして、観劇。客席から登場し本舞台に上がり、終幕は客席から帰っていくスタイル。これは、「私たち(観客)の中から生まれたエビータ」「私たちの中にあるエビータ性」ということを端的に表しているものだろうか。冒頭の歌(あれ、ダンスだけでしたっけ? 失念)のシーンの後は、台本を手にして読むスタイルで進んでいく。普段は自然に演じている姿を見慣れているせいもあって、「台本を読む」という形に違和感を覚えるのだけれど、これが話が進んでいくうちに(休憩はさんで2幕頭くらいになると)だんだん気にならなくなっていくのだ。これが不思議。台本を読んでいる姿を見せる(作・演出の石丸さち子さんの要望で「台本は覚えないで」と言われたそうだ)、ということはある種の客観性をわざと感じさせるということかなと思う。つまり、「エビータを演じている」という様を見せるということ。
女優を目指して貧しい田舎町からブエノスアイレスに上京し、女性としての手段を駆使して大統領夫人まで駆け上っていくのが1幕。そして2幕はフアン・ペロン大統領の妻であり副大統領としての姿を描く。
客観性から始まったこの舞台で、最終的には死を目前としたエビータが民衆に演説をする場面となる。ここでは水さんのエビータはもはや台本を手にしていない。客席に座っている私たちがアルゼンチンの国民であり、エビータが集まった国民たちに演説をするのだ。その言葉は本当に真に迫り、水さんのエビータの「説得力」に打たれた。

(ちなみにエビータは女優としては演技力はそれほどでもなくて、ラジオドラマでの声の表現のうまさで人気を得た、ということが作品中に描かれているが、エビータの「言葉の力」を追体験したような、そんな感じ)

こうして、朗読としてエビータという人物像を演じた水さんから→エビータと一体化し→そして、また人々の中へ帰っていく→という形で「私たちの内なるエビータ性」を感じさせるという構成が非常に効果的であり、また実際石丸さんの狙いどおりの効果を挙げていたと思う。
もちろん、それは普通のスターを夢見る女の子から、大統領夫人となって自分なりの正義を尽くそうとするエビータの成長の姿を映し出すものである。

********
エバ・ペロン(エビータ)といえばもちろんアンドリュー・ロイド・ウェバーの『エビータ』が有名で私も何度も見ていて(直近はブロードウェイで2、3年前にやったもの。リッキー・マーティンのチェはカッコ良かったけど、エビータ役のエレナ・ロジャーの演技はちょっと苦手だった……ごめんなさい)そこで描かれている悪女的なエビータ像が自分の中にインプットされている。今回の『サンタ・エビータ』では彼女がいかに社会性を得て、人々のために尽くそうと思ったか、という点を描こうとするものだった。自分の持ってる知識がミュージカル『エビータ』の範囲でしかないな……と観劇しながら思ったので、1幕と2幕の間に急いでスマホでアルゼンチンの社会体制と政治の歴史をうわーっと調べて読んで(笑)、それを頭に入れてみたらよりわかりやすくなった気がする。
ミュージカル『エビータ』では大統領夫人になったエビータが民衆に施しをするのも「自分の権力を見せびらかしたい」「自分がいい人と思われたい」からという描き方だったと思うけれど、『サンタ・エビータ』で描かれている彼女は違っていて。
劇中で、黒い毛が生えている子供がいると思って近づいていったら……という貧しさを表すエピソード(終演後に水さんに伺ったが、実話とのこと)等が描かれていたが、こういう経験を経て有名になりたい一心でスタートした彼女が、貧しい人たちをなんとかしたいと思い、それを行動に移す様を描いている。

1幕は若手女優らしい服装、2幕からは「エビータスーツ」といわれる大統領夫人になってからのエビータがよく着ていたものに変わる。この見た目でも彼女の変化を端的に表しているのだと思う。

*********
終演後にありがたいことに水さんにご挨拶させていただいて、「(演説のシーンで)ちょっと『シトワイヤン、行こう~!』を思い出しました」というレベルの低い(汗)感想を申し上げたのだけれど「ああ、そうね、デュナンとかね」と言っていただき。
オスカルもデュナン(『ソルフェリーノの夜明け』)もそうであるけれど、「出発地点ではそんなことは思ってもいなかったのに、様々な経験から社会の不平等さに気づき、自分で何とかしようと立ち上がって、尋常でない行動力を示す人」というキャラクターが水さんには非常にハマるのだなあ、と改めて思った。女性の役でこういうキャラクターを描けたことも僥倖だと思うし、またこういう水さんを見てみたいなあと思った。観劇しながら「ちょっとジャンヌ・ダルクみたい」とも思ったのだけれど、水さんのジャンヌ・ダルクも見てみたい。

*********
全編はバンドネオンの生演奏で彩られ、エビータの兄弟やフアン大統領、ヘアメイクさんやスタイリストなどエビータを取り巻く様々な男性を今井清隆さんが演じて、包容力のあるところを見せた。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年3月 | トップページ | 2015年6月 »