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2015/03/18

『十二夜』のフェステとマルヴォーリオ

3月17日『十二夜』(日生劇場)を観劇。フェステの存在をキーとして演出しているように感じられた。
(以下公演内容に触れてます)

フェステの台詞で「手袋をひっくり返すように、くるりと変わる」みたいなのがあったが、確かに考えてみると、くるりと回すといろいろなものが裏返るのが『十二夜』の特徴だ。たとえば、ヴァイオラを愛していたオーシーノはシザーリオが実は女性のヴァイオラと知った途端に、急にヴァイオラを愛するようになる。あるいは、ヴァイオラと(ヴァイオラが男性の振りをしたときの)シザーリオ、ヴァイオラの双子のセバスチャンとか。
演出上でも、盆を使って回る舞台美術や、終幕のセバスチャンとヴァイオラが再会するシーンで二人がくるくるっと回って入れ替わることもそうで、「唯一の真実と見えていたものが、くるりと回ると新たな真実が見えてくる」様子を、ジョン・ケアードは具現化して見せているようだ。

そして、フェステが「くるりと変わる世界」を道化という立場から見つめる。それは、ヴァイオラの台詞で「阿呆では道化は務まらない。頭がいいから阿呆の振りができるのね」とフェステを表現するが、阿呆と利口の両方を内包する道化だからこそ、フェステの視点が際立つのだと思う。
冒頭のやや足を引きずった登場シーンも非常に印象的(なんだけど、何を意味してるのだろう? それまで別の場所に行っていたという旅路が辛かったということかな??)。フェステの終幕の歌に深い余韻が残る(何か『夏の夜の夢』の「我ら役者は影法師……」というパックのラストシーンも連想させられる)。

閉じ込められたマルヴォーリオにトーパス先生にばけて話しかけるシーンでの体の使い方(ああ、ここもくるっと回ってる!)など、優れた身体性を生かした演技も見事。成河さんの演技がきっと、演出のジョン・ケアードを刺激したのだろうな……ということも感じられたのだった。

そして、マルヴォーリオの橋本さとしさん。稽古前にさとしさんに取材させていただいたが、騙されて黄色い靴下留めをつけたおかしさもさることながら(さとしさんの最高のニヤニヤ笑い(笑)!)、戯画化した描き方でなく、彼自身の切なさまでを描く。『十二夜』はシェイクスピアでは最後の喜劇だそうで、喜劇から悲劇への橋渡しとなる作品なのだそうだ。最後にアントーニオ、サー・アンドルー(石川禅さんが幅広い演技力を見せて好演)、そしてマルヴォーリオという「失った人たち」の悲しみで締め括るのも、そんな「喜劇から悲劇への橋渡し」を感じさせて興味深い。

今回の『十二夜』、非常に陰影深い作品だった。

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2015/03/03

女性目線と男性目線、コミュニケーションとディスコミュニケーションとかいうことを考える~『うさぎとシーラカンス。』

『うさぎとシーラカンス。』3月1日18時の公演を観劇。SCARLET LABELという丸山立さんが個人でプロデュースする公演の第2回だそう。
えーと……、観劇前に、作者である葛木英さんのツイッターで「女子数名からコレは私の話です!!と言っていただき、あぁ彼女たちのために書いたのかもしれないなと思いました」というのを先に読み、実際拝見したところの私の感想は「コレはまったく私の話ではない」というもので(笑)。主人公の女の子、ましろに共感するところがほぼなかったので、私の為に書かれた作品ではないのだなあと思うのですが、だからといってもちろん見る意味、見る価値はないということではありません。日頃観劇する場合、「共感」という尺度でとらえて「共感した→感動した」というベクトルになりがちですが、共感がなくても、いろいろ考えるところはあった作品でした。

あ、インターネットで見ると「自分の物語」ととらえた感想も多かったので、女性としては私がマイナー分類に入るのかもしれません、スミマセン。
ということで作品レビューとかでなく、ただの感想で。
(そして完全に内容に触れてるので、未見の方はご注意ください)

結婚を間近に控えた20代後半の女性、ましろ(秋山莉奈さん)。母親に捨てられ、血がつながらない男性(←かつて、母親に思いを寄せていた)に幼いころから育てられているが、父親代わりの男性に惹かれる思いが生まれてきている。ましろは自分の隠した心情をネット小説に書き綴る。舞台上は、現実と小説の世界が交錯して進んでいく。

という感じの設定。ちょっと自意識が強いというか、「愛されたい」「自分の思いを受け止めてもらいたい」と、自分では言ってないようでも前面に出している女性(いや、そうでなかったら自分の本名で小説をネットに発表しないと思うのよ……)なところは正直、個人的には苦手だなと思うのですが。
(余談ですが、つらつら考えてみると、自分はどっちかというと「自分が愛されたい」よりも「相手を理解したい、知りたい、受け止めたい」という欲望の方が強くて、だからライターをやっているんだなー、と今回の観劇をきっかけとして自己分析(?)できました)
もちろん上記のとおり、ましろのような思いを抱えている女性は多いのだとは思う。非常に女性目線が強い戯曲だと思うのですが、もしこれを同じ女性の方が共感を持って演出したら、多分私は作品を受け止められなかった気がする。演出の堀越涼さんという男性目線からこの戯曲をひも解いてもらったおかげで、も一つ奥深く考えるきっかけがもらえたように思うのです。
脚本のイメージに対して(わざと)完全に寄り添わずに、ときにきらびやかで具体的なイメージを持つ楽曲の力を借りてエンターテイメントに仕立てたことで、ある種客観性が持てたというか。どっぷり女性目線の芝居でなく、それと対抗する男性目線を感じさせることによって、男性の登場人物たち、よしなが(伊藤ヨタロウさん)やかたせ(加藤啓さん)などとの対比がより鮮やかなものになったと思います。

よしながは古書店を経営しているという設定で、「ああ、こんな旧い古本屋あったよな……」と思わせる舞台美術(からのラストシーンへの転換も含めて)が秀逸。
交互に描かれる小説の世界が、(ましろが自分自身をなぞらえている)うさぎと(よしながをなぞらえている)深海魚シーラカンスとの恋模様で、現実の世界でも古書店でうさぎを飼っているのですね。そのうさぎを擬人化して、金子侑加さんが演じています。金子さんは二役でましろの友人のかんなという役も演じているのですが(かんなのときは現代風の衣装で、うさぎのときは着物で歌舞伎の『玉兎』みたいなヘッドセット)、終幕近くにうさぎの拵えで語り出したけれど、それはましろではなく、かんなで。ああ、女性は皆、心の中にうさぎを飼っているということか……という繊細な表現にはちょっとはっとさせられました。金子さんは『江戸系紅千鳥』に続いて人ならぬ役。ものいわぬ佇まいでも表現するものがたくさんありました。あと、古書店のガラス越しにカーテンを引くときの(カーテンの向こう側だから姿はおぼろにしか見えないけど)身のこなしが非常にきれい。

ましろが結婚式場の下見に行く日のためにてるてる坊主を作っているのですが、「雨の日に結婚式場を見たら、そこが嫌になってしまうかもしれないから、晴れてほしい」と言う→本当はこのまま結婚していいのかどうかをためらう気持ち、とか、非常に心情に細やかな部分はさすがに女性である葛木さんの手によるものだなと思います。妹からましろの小説について聞いて「読めば」といわれても頑なに?読もうとしないかたせのあり方にも「ああ、そうか」とちょっと思う。だから、それぞれの思いが完全に交わってカタルシスに持っていく話でなく、特に男性と女性のディスコミュニケーションが際立って感じられる話であるけれど、違う同士が交わって何らかの変化が生じているところもあって。古書店のパート主婦のときこ(傳田うにさん)がよしながのちょっとした言葉から変化して、自分の夫に電話で「ありがとう」という短いエピソードが印象に残りました。

出演者ではやはり、よしなが役の伊藤ヨタロウさんの存在感と独特の雰囲気とリズム感が光っていました。

公演は3日まで、下北沢・駅前劇場。

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