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2014/12/28

自分をbareにするということ~ミュージカル『bare』

オフ・ブロードウェイ・ミュージカル『bare』を観劇する。【26日夜)
原田優一さんの初演出作。原田さんも何度か取材させていただいているが、役についてとても深く理解されている方だし、何よりいつも自分自身にきちんと向かい合った、真に迫った演技を見せてくださる方なので、初演出となるとどうなのか……?という興味を持って劇場へ。

カトリックの全寮制の学校で、同性愛と信仰の狭間で心を揺らす生徒を主軸に、どうしたら「bare」(心をさらけ出す、自分の心に正直に生きる)になれるかとまどう生徒たちの物語。

まず、音楽がカッコイイ。ロックの疾走感があり、演奏していたバンドもしっかりロックのグルーブ感があった。
チラシには「衝撃」とあったけど、同性愛!とかドラッグ!とか「衝撃」色を打ち出さずに、テーマに迫るようにシンプルにきちんと整理して見せたところが原田さんのセンスかなと思う。

ただ、一つ気になったのは、(これを見る前に『ビリー・エリオット ミュージカルライブ』で、本当に炭鉱労働者にしか見えない人たちが、リアリティがありながらしっかりミュージカルになっているのを見てきたせいかもしれないけれど)1幕目が若干(メイン5人以外の学生たちが……)リアルさに欠けていたかな……ということ。役だけでなく、ご自身もbareになってもっと自分の内面に向かい合っているものを見せていただけたら、よりよかったかなと思う。
2幕目になって、メイン5人のストーリーに話が絞り込まれてくると、私自身も集中して見ることができた。

でも、この作品を見つけ出して日本で上演しようと思った心意気の高さは強く感じるし、元の楽曲のパワーに自分たちのエネルギーをぶつけて、さらに高めていければどんどん成長していく作品であることは感じた。なので、さらにブラッシュアップを重ねて再演し続けていっていただければと思う。

キャストでは、岡田亮輔さんが心情の揺れ動きをナイーブに演じて、印象に残る。シスター役の小野妃香里さんがパワフルな歌声を聴かせながら、黒人でありながらカトリックのシスターである自分自身との相克をしっかりと打ち出していた。

※余談ですが、衆道の歴史がある日本と、宗教上の禁忌として考えられる欧米とでは同性愛に対する考え方が違うので、そのあたりは(いい悪いということでなくて)日本人が今回のような作品を理解するのは結構難しい部分もあるなというのも感じた。そのあたりは、一つの作品で簡単に噛み砕いて表現することもできないし、なかなか大変かな、と。
(私自身はカトリック学校歴12年で、カトリック信者ではないけど基本的なものの考えにカトリック意識がどうしても刻み込まれてるんだなあ、というのも今回の作品を見て改めて感じた)

観客側としては、このあたりを理解できるようになるためには、『ボイス・オブ・ヘドウィグ』を見るのも一つの助けとなると思う。これは『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のジョン・キャメロン・ミッチェルがNYにあるセクシャルマイノリティのための高校のチャリティCDを製作する過程を追ったドキュメンタリー。NYのLGBTQの青少年のため学校「ハーヴェイ・ミルク・ハイスクール」の日常が描かれているのだけれど、宗教上の問題でどうしてもLGBTQの子供を理解できない親御さんとの断絶なども登場して、私自身も衝撃を受けた。ああ、このドキュメンタリーもはやりbareになることがテーマだ、そういえば。

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2014/12/27

新たな感動~『ビリー・エリオット ミュージカルライブ』

『ビリー・エリオット ミュージカルライブ/リトル・ダンサー』やっと見てきました。ロンドンとニューヨークで観劇した作品で、今回の10周年記念公演のライブ版はぜひ見たかったのです。
ロンドンで見たときは3回は泣いたなあ、とか、そのころ『BILLY ELLIOT』はチケットが取れなくて、3階のはるか上の方の席で見たけど、それでもすごく感激したなあとか(映像で客席が映って、ああ、あのあたり、と思ったり)いろいろ思い出しつつも、今回の映像版では新たな感動が沸いて、ロンドンで見たときの倍くらい泣きました(笑)。

2005年の観劇当時に某所で書いたものを発見できたので転載すると↓

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『リトル・ダンサー(BILLY ELLIOT THE MUSICAL)』
 ロンドンで今一番HOTなミュージカルがこれ。映画『リトル・ダンサー』を元とした舞台で、音楽はエルトン・ジョンが担当している。84年サッチャー首相の時代、イギリス北東部の町で起こった炭鉱廃止反対のストを背景に、鉱夫の息子のビリーがバレエダンサーを目指す姿を描く。「踊っているとき、僕は自由だ」というビリーの台詞があるが、「人々の自由を求める思いを踊りに託す」というテーマ性が実に明快だ。何よりビリーを演じる少年(筆者が見たのは新キャストのレオン・クック)が素晴らしい! バレエのみならずタップ、歌など生命力みなぎる舞台に釘付けになる。鉱夫の生活感ある日常が歌と踊りで違和感なく表現できるのは、イギリス人ならではだろう。生きるパワーが貰えるような舞台だ。

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というものでした。

基本的な感想は(同じ作品なので)今もこれと同じなのですが、私の英語力では聞き取れてなかった部分も訳文を通して新たに理解が深まったところもありました。
たとえば、ビリーのお父さんがビリーがバレエをすることに反対したのはただ「女々しい」ことをするなというだけでなく、労働者階級の彼が中流階級のバレエ教師に対する反発心もあったのだ、とか。ビリーの兄に「お父さんはお母さんが亡くなって3年腑抜けだった」という台詞があって、ああ、そんな気持ちも描かれていたのに、とか。

こうしてお父さんの気持ちや立場がより理解できると、サッチャー政権下の閉塞した状況にあっても息子が自由に羽ばたくことを願ってバレエを応援するようになった心情の流れがより理解できて、感動が深まりました。


初演から10年たった今でも、本当に斬新で力強い舞台だなと思います。およそ(いわゆる華やかな)ミュージカルらしくない炭鉱夫たちのとてもリアルな姿を描いているのに、エンターテイメントとして成立している。上にも書いたとおり「人々の自由を求める思いを踊りに託す」というテーマが明確なんですよね。
(だからこそ、カーテンコールで炭鉱夫の皆さんもチュチュをつけて楽しそうに踊っているところが感動的なんだと思う。たとえ炭鉱が閉鎖になり暗い現実が待っていても、心は自由なままなんだとわかる、というか)


今回特に心打たれたのが、ビリー役のエリオット・ハンナ君。わずか11歳でありながら、客席のすべての人(さらにはスクリーンの向こう側にいる大勢の人)をエリオット君の気のパワーで満たしていた。その姿に演劇の根本の力を見た思いです。この日はスペシャルバージョンで初代ビリー役で現在はマシュー・ボーンの『白鳥の湖』の王子役をやっているリアム・ムーアが出てきて、ビリーの成長後のビリーとしてデュエットダンスを踊るところは本当に感動的でした。

しかし、同時に思うのは、エリオット君と同時期にビリー役をやっていて映像版には採用されなかった残りの3人のこと。きっと自分も10周年記念キャストとしてビリー役をやりたかったろうし、映像にも残され立っただろうなと思うと……、うーん、切ない、けどこれから頑張れ! と余計なことまで考えてしまったり(笑)。でも、歴代のビリー役の人が一堂に会して見事なダンスを繰り広げるのを見ると(私が見たレオン・クックも当然出てきた! 大人になってた!(笑))きっと子役時代に主役をやっていてもいろいろな人生が待ち受けているんだろうなと思うけれど、でもこうして皆で踊って輝いていることがとてもかけがえがないなあと思ったりしました。

今調べてたら、おばあちゃん役のアン・エメリーさんは初演の時からのキャストなんですね。ああいう、ご年配の脇役でしっかりキャラクターを出した演技をしながら、ちゃんとミュージカルの役として存在していられる方がいるところが、欧米のミュージカル界の層の厚さで、そこはなかなか日本のミュージカル界では太刀打ちできない部分なんですよね。(ミュージカルをやっている歴史の長さの違い、といえばそれまでなんですが)

当初、東京では今日27日までの上映とのことでしたが、来年1月9日からの再上映も決まったとのこと。なんとかもう一度は見に行きたいと思います。


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2014/12/20

「治む力は強さだいのい」~花組芝居『夢邪想』

昨日、2回目観劇の『夢邪想』でした。
加納幸和さん演じる姉神(麝香)の「治む力は強さだいのい」という台詞(と、加納さんの目線と表情)が何故だかぐさっと胸に響いてきました。
上記の台詞は妹神(八代進一さん)に「姉さま、似てきたのい 兄さまに……神門さまに……」という台詞への答えなんですが、集団を率いることの決意と自覚、の中に自分がそうなってしまったことへの悲しみの色がまじる。

男同士が殺し合う世界へのアンチテーゼでもある、女だけの森。でも、単純に「男性思考vs女性思考」という構図に収まるものでもないんだな、ということを改めて感じます。
「悪魔子」とよばれる末妹神(植本潤さん)に対する差別意識を含め、生み、育てる「母性」という一般的なイメージとは反対の残酷さも内包している。
だからこそ、純粋に人を愛する凪依や杉渓、薄葉の思いが際立って見えるわけで。

加納さんがパンフレットのインタビューでおっしゃってた「女だろうが、男だろうが、どっちでもいいんだと思う瞬間がある」というのはこの台詞のことなのかな、とも思います。
でも「治む力は強さ」って台詞を説得力を持って言える人、なかなかいないですよねー。稀有だなあ。
うむ、奥深い。


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2014/12/15

これは「胡蝶の夢」か~花組芝居『夢邪想』

12月14日の初日公演を拝見。
(※以下、公演内容及びラスト部分に触れてますので、未見の方はご注意ください)

『夏の夜の夢』で大きなモチーフとなっているのは(当たり前だけど)「夢」。恋人たち4人が魔法によってかけられた夢から解かれたシーンを見ると、ちょっと他人事として「ああ、夢から覚めたのね、よかったね」とか「ディミートリアスは夢から覚めないままなのか」とかを感じる。

でも。「『夏の夜の夢』より」と題された花組芝居公演『夢邪想』でも上記に当たるシーンも描かれるのだが、もっとナマな……自分が今まで見てきたものが根底から覆されれるような、不思議な衝撃を受ける。
何が本当か、本当でないのか。
あるいはその境目すらないのか。

そして、終幕。パック(にあたる役)が有名なラストの台詞を言う……のだけれど、そこには玉音放送の終戦宣言がないまぜにされているのだ。
終戦宣言は、当時の日本人が持っていた価値観を崩すもの。人々は自分の根本がゆらぐような感覚を受けたのではないかと思う。

夢。ゆらぎ。酩酊。足元がおぼつかなくなる感覚。そんなものが満ちている『夢邪想』の舞台だった。

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ふと思うのだけど、今作中にも出てくる台詞「きれいは汚い」(『マクベス』)もそうだけど、シェイクスピア自身も価値観のゆらぎに注目して書いていた人なのだろうか。
そう思うと、『夏の夜の夢』の原型をほぼ留めていないような『夢邪想』も、実はシェイクスピアの本質的な部分に最も近づいている作品、といえるかもしれない。

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『夢邪想』は設定を昭和18年の日本とし、太平洋戦争で学徒出陣が決まった東京帝国大学学生たちがいる現世の世界と(妖術も使えたりする?)女性だけが住む妖かしの森の世界とが交互に描かれる。

なぜ、森の中の集落が女だけになったか、というと、男性が男性を殺すから。戦争して男同士殺し合っていることに対する強い反論を、この幻想的な設定の中に巧みに取り込んでいる。
男性の論理に対する女性からの反論が色濃く描かれているのは、作者の秋之桜子さん(=女優の山像かおりさん)の女性ならではの目線によるものだろう。それを男性のみの劇団である花組芝居で演じるのが面白い。
ことに、それを言う凪依役の美斉津恵友さんがとても思いにまっすぐに演じているので、よりストレートに心に響いてくるような気がするのだ。
凪依は女性と男性というジェンダーを超える「ゆらぎ」のある役でもあって、これは確かに「女優でもできないし、普通の男優でもできない役」(パンフレットでの加納幸和さんの発言)で、花組芝居ならではかなと思う。

パンフレット対談取材の関係で事前に台本を読ませていただいていて(稽古は見てない)、女性のみの森の集落の表現はどうするのだろう……と思っていたのだが、姉神の加納さんと妹神の八代進一さん、そして老婆の溝口健二さんが出てくるところが、泉鏡花の『天守物語』か『夜叉ケ池』のように見えて(二人富姫!)、ああ、これが花組版の妖しの世界か、と急に合点がいった。(←ちなみに役者さん二人くらいに「『天守』みたいに見えた」と言ったら「ええっ、そうですか?」という返事だったので、そういう演出意図はないみたいだけど(笑)) 

そして、女だけの森に住む女性たちは、ある種時代がかった言い回しをしている(使われている方言は秋之さんが創作したものとのこと)。そこに囚われている唯一の男性(桂憲一さん)はとてもリアルな言い回し。女性と男性の言い回しが対照的なのが効いているし、花組芝居が今まで培ってきた台詞術がこういうところにも出るのだなと思う。

脚本で読んだときの印象でも一幕目で「え、私、理解できてない気がする……」と思ったのだけれど、それは舞台で見ていても同様で(笑)(←私の理解度が足りてない、多分)、二幕目の冒頭に、森につれてこられた帝大生、温羅波(丸川敬之さん)が登場して「豆の花はあるかい」と言うと一気に頭の中で物語が組み立てられる感じがする。「豆の花」というのは『夏の夜の夢』に出てくる妖精で、このキーワード一つで『夏の夜の夢』と『夢邪想』の重なりの構造が見えてくるものだなあ……という感覚も、自分的には面白かった。

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夢らしく、というのか、『夢邪想』の物語は様々な要素が多層的に絡み合うものだ。差別の問題をはらんで、共同体を破壊する役目を末妹神(『夏夜』のパックにあたる)が担う。植本潤さんが4年ぶりの花組出演(そんなに久しぶりか……)で演じているのだが、そのどろりとしたパワーが無類。妹神の娘薄羽(堀越涼さん)がとても純粋できれいな心で人を愛する役で、生身の女の人が演じられない(表現しにくい)ところを見せていたかなと思う。凪依に恋する杉渓に小林大介さん。『宝塚BOYS』でもそうだったけど「戦中戦後の男性」感がとてもリアル。

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『夢邪想』では「魂を運ぶもの」である蝶々のイメージが出てくる。役名もすべて実際の蝶々の名前にあるもの。『夢邪想』では蝶々に誘われ、物語の奥深くに分け入っていくと、最後は自分の立ち位置も価値観もふわっとゆらいでいるような感覚にとらわれる。これはまさに「胡蝶の夢」(=現実と夢の区別がつかないこと)なのか……とふと思った。

公演は~23日まで、あうるすぽっと。26日~28日、伊丹AI HALL。

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