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2014/10/18

あやめ十八番ワークショップオーディションに伺いました

昨日、堀越涼さんが主宰するあやめ十八番のワークショップオーディションにお邪魔しました。16~19日×各日2回=全8回あるうちの17日の夜の回です。

あやめ十八番のワークショップオーディションを見学するのはこれで……4回目(結構行ってるなあ)。1回目はコチラ、2回目はコチラ、3回目はコチラ、で今回。来年4月の公演『長井古種日月』の出演者オーディションを兼ねてのワークショップとのこと。

全体的な流れは前3回と同様で、最初に堀越さんがあやめ十八番の説明と「このワークショップはゲームなどは一切行わず、台本を渡して短い場面を作り、堀越さんがそれに演出をつけるものだ」という説明をします。(あ、今回は求める演技=リアル、という話はしてなかった気が……→あやめ十八番が目指すリアルとは何か、という話は1回目のコチラに書きました)

ワークショップ拝見するのが4回目なのでちょっと飽きたりするかなあ(自分が)とちらっと思ったのですが、もちろんそんなことはなく。もちろん生身の人間がやってることですからね、そのときどきによって違うことが起こるので、3時間半非常に面白く拝見しました。

私たちの回では堀越さんの書き下ろしの台本を3人1組で演じました。内容は(堀越さんのご実家の生業である)団子屋さんの日常から後半会話におかしみが出てくる…という感じのもの。ある意味コメディ。


今回のワークショップものべ90人近くの参加者がいるそうで、その参加者全員に一人一人向かい合って、予定調和でない「リアル」な芝居ができるように演出をつけていく堀越さん。ある意味、感情がどう動くか、でなくて、どうするとリアルに見えるかという「技術」的なことを教えている部分もあると思うのですが、それを身につけていくうちに実際心が動いてる(動いてるのか、動いてるように見えてるのかは、客席側からは判断できないけど……)ようになる瞬間があって。
たとえば、しばしば堀越さんが参加者のうちの一人に代わって演技をするのですが、そうすると受け答えが急に真実味を帯びたものになったりするんですよね。

芝居というのはコミュニケーションなんだなあ、という基本に改めて立ち返ります。それは、参加者同士の芝居だけでなく、演出家とどうコミュニケーションを取るかでもあって。演出の言うことにたちどころに反応できない(うまくコミュニケーションできない)方を見ると、なんだか見てる見学者側の人間(私)の胸も非常に痛んだりします。

ここでさらに考えるのは、このワークショップに見学者がいるということ。演技をしている人同士、対演出家、だけでなく、観客側の立場の人とのコミュニケーションも、実はあるのが、このワークショップかなと思いました。もちろん、観客がいないと芝居は成立しないものなんですが、ワークショップの段階でその形にする。

例えば…、私の座ってた席がたまたま中央寄りの演出席に近い位置だったんですが、堀越さんが参加者に代わって演技をするとき、その取って代わられている人がどこに立つのか。ある方は私の前に立ったし、ある方はさりげなくよけて皆の目線に入らないところでちんまり座ってたりする。多分参加者の方の無意識の行動なんだろうけど、そういうところにも(堀越さんが大事にしてる)「慮り」が出るんだなあ、と思うのです。

そういう意味では、堀越さんがその場で演出をつけてる3人、その3人の稽古を見てるワークショップ参加者、それに見学者、と360度神経が回ってて、それぞれに言葉を届けようとしてるのはすごいことだよなあ、とも思いました。

また、もし、こういうことを書いてもいいのであれば……、堀越さんとその場で演出上うまい形でコミュニケーションが取れずよい芝居ができなかったな~とご自分で思っていらっしゃる方がいるとしたら、その痛みを共有した見学者(というか、観客)もいたことも心に留めてほしい。その場にいる人が全員一緒になって呼吸することが芝居なんだよ……と思うし、そんな芝居の根源的なことまで考えてしまう貴重なひと晩ではありました。

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現実にある壮大な悲劇の果てに見えるもの~『炎 アンサンディ』

※結末およびストーリー上の仕掛けの部分に触れていますので、未見の方はご注意ください。

『炎 アンサンディ』、圧倒的な力強さを持った舞台だった。
作者はワジディ・ムワワド。レバノン生まれで、ベイルートで内戦を経験しフランス→カナダに亡命をした方だそうだ。

(ツイッターにも書いたが)昨年、スタジオライフの『LILIES』のパンフレットで倉田淳さんと吉原豊司さんの対談を取材させていただいたとき、吉原さんから昨今のカナダ演劇事情についてお話を伺った。
いわく、「カナダ演劇の流れとして、イギリス系、フランス系に加えて、新移民、新移住者たちによる演劇という第三勢力が出てきている。難民として命からがら逃げ出してきた人たちが難民としてカナダに受け入れられ、その人たちが演劇で物を言い始めた。非常に切実でつらい体験が母体となった演劇で、そういう人たちが持ち込む新たな葛藤がカナダ演劇で力を持ち始めている」とのこと。

そして、カナダ演劇の新移民者による演劇の代表例として、『炎 アンサンディ』(『灼熱の魂』というタイトルで映画化)を挙げていた。

取材した当時、どういう内容だろう? と気になって取材してすぐに『灼熱の魂』のあらすじだけ探して読んだのだが、そのあまりの過酷さに衝撃を受けた(特に結末部分が過酷すぎるように感じて、映像も躊躇して見られなかった…)。

そのときから気になっていた戯曲の日本での上演、とのことでどうしても見たい舞台だった。千秋楽に当日券トラムシートでなんとか駆け込み観劇。

実際に舞台に触れて思うことは、「悲劇」というとどこか作り物めいた印象もあるが、現実を知る人だけが表現できるリアルさ、過酷さが言葉の一つ一つから伝わってくることだ。
戯曲の力強さを際立たせるように、余計なセットもなく、非常にシンプルで研ぎ澄ませた演出が作品の世界に寄り添っていたと思う。

この作品の批評や感想でいくつか見受けられたのが、ギリシャ悲劇と比較しているもの。
もちろん、そういう意図も含めて書かれているのだろうし、オイディプス王を思わせる壮大な悲劇が、現代の社会にもそのまま成立してしまう悲惨さを描く作品であるのだと思う。

ここで話の終幕部分を書くと(これから見る可能性がある方は注意!)

「5年間言葉を失っていた母ナワルが亡くなり、遺言によって、双子の子供たちに彼らの父と兄を探せと命じる。……実は、内乱でナワルと敵対する側となっていた息子が、自分の母とは知らずに強姦し、そこで生まれたのが双子だった。つまり、双子たちの父と兄は同一人物だった」のがこの物語の構造。そうとは知らずに実の父を殺し、実の母を妻としたというのがオイディプス王の設定。

『灼熱の魂』のあらすじを読んだときに、母親がこの事実を双子の子供たちに教えるのはあまりに残酷すぎるし、知らない方が双子にとっては幸せなのではないかと思った→そのときは「オイディプス王的運命の悲劇だから、こういう筋立てでも仕方ないのか」と自分で自分を納得させた。

だが、今回の舞台を見て最後に感じたのは、どんなに過酷な状況であり辛い現実であっても、母としての深い愛情が子供たち(双子に対しても、双子の兄に対しても)に注がれているということだ。
それは、物語の終幕、ついに対面した双子と兄に対して母が書き残した手紙が読まれる場面のこと。それまで、言葉を失って本心を隠してきたナワルの表情が、子供たちに対して深い慈愛の表情を見せる。

同民族が血で血を洗い、報復の連鎖が止まらない現実の中でも、(母親自身が言葉を失うほどの葛藤の末のことだけれど)それでも、母は子供を愛する……。過酷な現実の中に唯一残るものに非常に心打たれた。

そして、この戯曲に真正面から向かい合い、一つ一つ紡ぎだしていった7人の役者さん。皆さん素晴らしかったが、やはり母ナワルを演じた麻実れいさんについて触れねばなるまい。ナワルの人生を現在から回顧していく構成で、おおまかには10代、40代、60代と演じる戯曲で、カナダで上演されたときは各年代を別々の女優さんが演じていたというが、今回はすべて麻実さんが演じる。通して演じているからこそ、非常に受け取るものも大きかったし、勉強も許されなかった当地の女性たちの中で、読み書きを知り言葉を知ることで世界を広げて人間としても成長していく様も感じられた。(40代になって、戦う姿は役のイメージからするとカッコよく見えすぎているのかな、という気もするけれど……それも麻実さんの個性かなとも思うし) 3時間の緊張感ある舞台を引っ張って、ナワルという女性の生き方を確かに体現されていたと思う。

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