2016/12/23

あやめ十八番『霓裳羽衣』

壮大な舞台だった。インドの神々と人間が織り成す「不幸には底がない」という話。
東京芸術劇場初進出作品として、劇場のスケールを軽く超えた壮大なスケールの話を打ち出した。
思えばあやめ十八番前作の『雑種 花月夜』は離婚した旦那さんに会うかどうかという話と劇中の虫ミュージカルで、めっちゃミクロな世界からめっちゃマクロな世界へと大転換しているので(笑)、その振れ幅の大きさには驚かざるを得ない。

インド神話から取った神々の名前、あと、「劫=一辺40里の岩を、326年に一度天女が舞い降りて羽衣(霓裳羽衣)でなで、岩がすり減って完全になくなるまでの時間を指す」という長い年月を表すたとえ話を借りて、ストーリーは作・演出であやめ十八番主宰の堀越涼さんがオリジナルで作ったものだということ。

そして、「贋作女形」芝居。
堀越さんの花組芝居での女形経験という演劇的ルーツに遡る試みでもある。
堀越さんに本公演のパンフレットの取材で伺った話では、「岩の下敷きになった女の子の話がやりたい」と思いついた→この話のスケールに合うのはインド神話くらいしかないと思いついた→さらに、大奥の話を合体させた、という順番で発想されていったということ。

まあ、最近はオールメールでやる舞台も結構ある。そして、私個人としては(元が宝塚ファンからスタートしているので)「男役十年」みたいな積み重ねてきた「芸」を見ることを尊重する、という立場もあり、贋作女形劇というのはどうだろうか……というのは見る前は若干の不安もあった。が、実際見てみてなかなか面白いものだったと思う。それは「設定を大奥にしよう」としたのが功を奏したのかな。インドの神様の話なのに全体的に歌舞伎味の強い台本であっても設定が大奥だから違和感なく、統一感が取れている。おそらくは演技として基調に堀越さんの作る女形像があり、そこからそれぞれの人の個性とアプローチで女形を作るということでバラエティに富みつつ、散漫にならないものが出来上がっていた気がする。

ギリシャ悲劇に通じるような神々の壮大な話を演じられるのは男性の力強い肉体を持ってこそだし、逆に男性がやるからこその、ちょっとした(ふふっと笑っちゃうような)おかしみもあったのもポイントになった。
千穐楽のご挨拶で堀越さんが「贋作女形劇、またやりたい」というようなことをおっしゃっていたけれど、他の劇団やユニットではできないものだと思うので、ぜひまた違う形で見てみたいなと思う。

話としては本当に不幸な話で、しかも最後の最後まで徹頭徹尾不幸な話で、そこまで行くとカタルシスがあるなあという感じ。なんだけれども、今回2回見て2回ともふっと目が潤んだのは、ソーマの死の直前に亡くなったお母さんが迎えに来る場面。不幸で塗りこめられている話の中で、純粋な愛情を娘に注ぐ母の姿が印象的で(母親役梅澤裕介さん好演)、そこに家族の愛情を貴ぶ堀越さんの視点があったように思う。

演出的な見せ方として、役者さんが動かすパネルで、岩と大奥の襖を裏表で表現するところに、ダイナミックさがあった。もう一つ、ステージ上の段に生演奏の楽隊(今回は全員役者さんと音楽の吉田能さんが演奏)がいて、彼らも神々であり、他の神々の争いを高みの見物しつつ、上界から音楽が降り注ぐいう構図が効果的だった。(サラスバティーの田中真之さんの「インドの神様」感が半端ない)今回もオリジナル音楽と生演奏、それに生効果音で作品をより立体的にした。特に、カーテンコールでも演奏される曲がインドの悠久さを感じさせる。

すべての発端となるダーキニーの笹木晧太さんは色気があって、笹木さんとしても今までにない感じを見せた。御台所パールバティー小林大介さんと姉妹役の原口紘一さん、小坂竜士さんが男性がやる女形ならではの迫力。小林さんの髭の女形も「あー、そうだよね」となぜか納得がいった(笑)。アラクシュミー(インド神話の不幸を司る女神の名前だが、邪視という設定は堀越さんが考えたものかな?)の尾﨑宇内さんの悲劇性が色濃くて、物語が深まった。ラクシュミー堀越さんは登場した瞬間から、違う世界の神という存在感が極まる。

復讐の鬼となるサントーマ・シー美斉津恵友さんは「鬼」になった変化をくっきり見せたのと、客席を通り過ぎる動きが水を滑るようでさすがだな、と。ウシャス北沢洋さんの「海千山千」なしたたかさ、老婆の熊野善啓さんの深さ。水澤賢人さんの少女アシュミタの純粋さ。ソーマの二瓶拓也さんが普通の少女が運命の糸に絡めとられて行く様が切ない。ヴィナーイカーの和知龍範さんが美しく、ラストに衝撃感。塩口量平さんのお褥滑りの側室ミーナクシーが面白く、シュクラの聡明さも。女狐ジョヌ(佐藤修作さん)の最初の台詞が「今夜」が「コーーーンヤ」になって、『義経千本桜』の狐忠信の狐言葉みたいになっていたのが面白い趣向。

力のこもった舞台だった。2時間5分の上演時間中、1時間50分くらいまで「この話はどういう先に行き着くんだろう」と思って見ていて(笑)、強い物語力に引きずられていった。あやめ十八番という団体としては、また新たなタームに到達したなという印象。

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2016/10/25

ミュージカル『ドリアン・グレイ』(韓国)~キム・ジュンスが深いドラマを創り出す

ソウル・城南アートセンターでオリジナルミュージカル『ドリアン・グレイ』を観劇した(22日マチネ・ソワレ)。
注目はキム・ジュンスさんのドリアン、パク・ウンテさんのヘンリー、チェ・ジェウンさんのバジルという布陣。そして演出家イ・ジナさんの手腕。
イ・ジナさんは以前『ヘドウィグ』を見たとき、キム・ジェウクさん主演時と別の方の主演時でまったくアプローチと演出を変えてきて、なおかつ本質に迫っていくスタイルを取っていて、感嘆させられた。(← 2011年観劇時のブログ「韓国版『ヘドウィグ』」参照)
今回は、キム・ジュンスさんというキャストを得て、ジュンスさんの個性と特技を用いてドリアン・グレイという人物像を浮き彫りにする。(ショーアップ目的で本人の個性を生かす、ということでなくて、役者の個性を通して役柄により深くアプローチしようとしてらっしゃるのだと思う)

なぜタイトルが原作どおりの『ドリアン・グレイの肖像』でなくて『ドリアン・グレイ』という人物名になっているかというと、肖像の変化という怪異譚でなく、ドリアン・グレイという人物像を描き、そこに「良心との葛藤」という普遍的なメッセージを込めたいからはないか、と想像する。

そして、オリジナル・ミュージカルということ。私は日本では宝塚の紫吹淳さん主演版、スタジオライフのオールメール(男優のみ)版、山本耕史さん主演の出演者が6人のみのバージョンとを見ているが、観念的な内容の原作はミュージカル化するにはハードルが高い演目だと思う。今回の韓国版は工夫を凝らし、豊かな音楽と想像をかきたてる映像を交えた美術で、クラシックな雰囲気の中に現代的な要素を盛り込んで、現代に通じる作品として仕上げた。

特に印象に残るのは、ドリアンと最初に出会ったヘンリーが唯美主義を歌うナンバー。このメロディを続けてドリアンが歌うことで、唯美主義の考えがドリアンの心に浸透していっているということが表現され、観客も理屈でなく実感として受け止められる。ミュージカルならではの表現で、この作品をミュージカルにした意味があった。このメロディはドリアンの死の直前のソロの中でも一部歌われて、ドリアンの20年の軌跡も感じさせるのだ。

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ドリアンは、友人の画家バジルが描いた肖像画を見て自分の美しさに気付く。唯美主義を実践するヘンリーの感化を受け「自分の代わりにこの絵が年を取ればいいのに……」と願ったドリアンの言葉が現実のものに。ドリアンの美しさはそのままに、肖像画がドリアンの悪事の代償を引き受けて醜くなっていく……。
作者のオスカー・ワイルドは「ヘンリーは世間の人から見た私、バジルは私が自分自身だと思う私、ドリアンは自分がなりたい私」と書いているが、この舞台でもこの3人を中心としてストーリーが進んでいく。

キム・ジュンスさんのドリアン・グレイ。
これまでのミュージカルにおけるジュンスさんは、たとえば『エリザベート』のトート役での登場シーンでエリザベートの肖像画をずっと見つめて、客席には後ろ姿を向けていたり、『デスノート』1幕ラストで高所の手すりに飛び乗ってしゃがみ込み、不安定な世界をL役として象徴して見せたり、と独自の感性とアプローチで役柄を体現してきた。今回のドリアン・グレイ役では演技者としてさらに深みを見せた。
純粋な青年がヘンリーによって唯美主義を吹き込まれ、悪事を重ねながらも自身の美しさは20年も保ち続ける……という役だがそのときどきに表情を変えて、人物像を明確に浮かび上がらせる。
特に、純真な姿からスタートした1幕と悪の世界に身を浸す2幕の違いが対照的だ。この二面性の浮かび上がらせ方は、作者オスカー・ワイルドが一つの事柄に常に二面性を与えていたこととも重なり合う。

上に書いたイ・ジナ演出が「役者の個性を通して役柄により深くアプローチする」という点では、ジュンスの得意とするダンスをミュージカルにも取り入れた。最初の登場シーンでショパンの曲に載せたダンスではドリアンのピュアな内面を表し、1幕のラスト「Against Nature」では自然の摂理に逆らったでも唯美主義を体現したいと願う激しい思いをダンスにぶつける。2幕冒頭の肖像画の影とドリアン自身との葛藤をダンスに表現するシーンは、物語上でもとても効果的だった。

ジュンスさんは今回のドリアン・グレイを演じるにあたって「さまざまな翻訳の原作を読みながら、1か月かけて俳優や演出家、作家たちと台本の内容を一生懸命勉強」したとのことだ。(先日、翻訳家の松岡和子さんに取材させていただいたとき「蜷川幸雄さんが翻訳戯曲を演出するときは、自分が使う台本だけでなく、あらゆる翻訳を手に入れて読んだ」というエピソードを語ってくれたのだが、それに通じるものがあると思う)深く物語をとらえようという努力が、ドリアンを演じる上での表現の多彩さや深みにつながったのだろう。特に2幕のラストシーンでの長いソロナンバーに、ドリアンに宿る様々な心理があふれ出た。ドリアンの人生がそこに凝縮し、大きなドラマを生んだ。

パク・ウンテさんのヘンリーは、彼の唯美主義の思想を歌で表現するという役どころであり、確かな存在感を放った。20年の経過を演技で見せたもらえたら、よりよかったかと。日本では『スリル・ミー』の「私」役で知られるチェ・ジェウンさんはバジル。バジルの人柄がにじむ演技で好演。ドリアンのジュンスさんと、三人のトライアングルで見せる舞台だった。

作品中で気になるところをあげるとすれば、ドリアンが恋するシヴィルの設定。原作の場末の女優でなく大劇場の女優にしたのは、見栄えの問題を考えてかもしれないけれど、「醜の中に美を見つける」という原作に描かれた対比が生きてこない。恋をしたシヴィルが演技下手になる…というシーンが戯画的に描かれているのも、個人的にはあまり好みではない。チェコで撮ってきたという映像は概ね美しいが、本人が歌っているところでご本人の映像が大写しになるのは、せっかく生身で演じている方が見辛くなってしまうので、一考を要するところ。

話がそれるが、日本では大劇場で上演される、日本人スタッフによるオリジナルミュージカルは非常に数少ない。(今年だと『DNA SHARAKU』くらいか? 『王家の紋章』はオリジナルミュージカルの新作だが、作曲はリーヴァイさんだったし)それだけオリジナルミュージカルを作るのが大変だということだし、これだけの上演規模とレベルの高い音楽、美術、演出とで新作『ドリアン・グレイ』を生み出したパワーには感服する。

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2016/06/04

あやめ十八番『江戸系 諏訪御寮』

漆黒に黒を塗り重ねたような、闇。
そんな深い闇を感じさせたのがあやめ十八番初の再演作品となる『江戸系 諏訪御寮』。
脚本は初演当時のままとのことだが、美術は初演の床面に大きい陰陽マーク(勾玉形の)と二角を白い障子が囲むものから、今回は同時上演の『ゲイシャパラソル』と共通の、正方形の黒い舞台に(客席二面)。LEDで鮮やかな色合いを印象付けた『ゲイシャ~』とは対照的に、この「漆黒」が、「鬼が死んだ赤ん坊をよみがえらせる」命を借りる物語でもあるこの作品を、さらに際立たせる。

初演は2014年で、そのときの感想はコチラ(「ある意味、EVERYTHING IS RENT~あやめ十八番『江戸系 諏訪御寮』を見ました」)。十六島にある鬼の伝説と「拝み屋」の諏訪家と篠塚家の物語、拝み屋の過去の怪異譚が絡み合うストーリーはもちろん同じだけれど、総合的な見せ方が洗練されて、音楽との緩急などから、複雑な筋立てをよりわかりやすく見せられるようになった印象(私が、堀越さんの作風を見慣れたせいかもしれないけど)。
また、お線香の匂いがするお札とか、火鉢の使い方とか、現実に根差したリアルな描き方、というか、リアルの演劇へのすくい上げ方もうまいなあ、と思う。

いろんな要素がある物語の中で、初演の感想にも書いたとおり、堀越さんの死生観、喪ったものたちとどう向かい合うのか、というのが個人的には印象に残る。
喪われたものは、いつか、かえってくるのだろうか。
2時間の物語にたゆたう内に、そんな思いが浮かんでは消えていく。

さて。演者では、御寮さん役の金子侑加さんが日本人形のような外見と「神性」さえ感じさせる演技で、鮮烈な印象を残した。土佐まりなさんの「少女」と美斉津恵友さん諏訪家次男春平との恋が瑞々しい。

劇中、扉をコツコツと叩く音にぞくっと背筋が寒くなるものを感じる。「怖い話をやろうというわけじゃない」と最初の口上で堀越さんが言っているけれど、心の中に素朴な恐怖心(畏怖心?)がかき立てられて、そんな心の隙間に物語のあれこれがしみわたっていくような舞台でもあった。

新たな代表作となるであろう新作『ゲイシャパラソル』と初期の代表作『江戸系 諏訪御寮』で、演劇的成果は高かったと思う二作品同時上演だった。

公演は5日まで、サンモールスタジオにて。チケット完売で、キャンセルが出たときのみ当日券が出るとのこと。


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