2017/09/28

あやめ十八番 『三英花 煙夕空』

観劇したというよりも「目撃」したとでもいうような。
大正時代に建てられた平櫛田中邸での公演。平櫛は彫刻家で、22年かけて六代目尾上菊五郎をモデルとした鏡獅子像を作った人。(中村勘三郎さんが平櫛の彫刻から六代目の鏡獅子に迫る…というドキュメンタリー番組を以前見たのが印象的→コチラ

そんな物作りへの情熱と執念がこもる平櫛のアトリエで上演されるのは、物語る「物」たちの話。
温度的な暑さだけではない、濃密な空気がこもるアトリエで、わずか20数名の観客が場を囲み、繰り広げられる物語に息を飲む。

大正時代。目の見えない骨董商、尼子鬼平の師である織部が殺された。織部の死の謎を解くべく、鬼平は日本刀、壺、幽霊絵の日本画に話を聞く。
ストーリーは芥川龍之介の『藪の中』のような要素(事件を解き明かそうとするが、三者の説明が食い違う)をはらみつつ、謎解きの後、急転直下で物語は進んでいく。

時代物でちょっとぞっとするような感覚があるあやめ十八番の作品……というと、『伊勢系 水巴』、そして堀越さんがコロさんに書いた『肥後系 麗月』(私は未見)だろうか。こちらは共に一人芝居。
物が擬人化する作品では、「病院」と同棲生活する男の話の『伊勢系 薄化粧』があった。
これらの作品の流れを汲みつつ、演劇的には大きく発展したのが今回の『三英花 煙夕空』だろう。

当日パンフレットには「モノに魂が宿ったら、面白い」と作・演出の堀越涼さんの言葉があった。
もちろん実際には、モノは語らないし幽霊もいないけれど(←身も蓋もない表現で申し訳ない)、でも、観客は「モノに魂が宿ったら……?」というフィクション(いわば、大風呂敷)に身を委ね、「物語」の世界に没頭する。そんな演劇的なダイナミズムにあふれているのは、平櫛のアトリエや日暮里駅から谷中墓地を通る会場への道筋という周到な借景、堀越さんの物語の世界に否応なしに観客を導いていく力強い脚本、影絵などを用い、空間を生かした緩急ある演出によるものだ。

そして、役者を生かすということ。

鬼平の島田大翼さんの輪郭のはっきりした演技は、どんな時代設定にも負けない気骨がある。島田さんはオペラシアターこんにゃく座の役者であり、ストレートプレイの経験は殆どないと聞いて驚いた。そういう人材を見つけ出し、適材適所で使えるのもあやめ十八番、堀越さんの手腕だろう。
万年壺の村上誠基さんの達者さはいわずもがな。人間でない「物」を演じるのってどうなんだろう…?と思うけど、含羞のあるキャラクターを見せた。
大脇差にっかり平左兼正の小口ふみかさんはあやめ十八番の出演を重ねる毎にどんどん魅力的な役者になっていくし、出演者四人と思いきや、音楽監督の吉田能さんは見たこともない楽器を生演奏をするだけでなく、役者としても出演。刑事西田昌造の老練な感じが意外で面白い。吉田さんはさらに照明も操作して八面六臂の活躍だ。

幽霊絵のお駒と回想シーンでの織部の娘のはる役を、あやめ十八番座員の金子侑加さん。堀越さんは金子さんの魅力をうまく生かす脚本を書くなあ、と改めて思う。今回も嫋嫋しい風情ながら、一転して女性の違う一面を見せるところに凄みがあり、お駒とはるがいわば裏表のようになっているのも効果的だ。

現実と空想のあわいで始まった物語はストンと終わり、観客は暑い夏の終わりの現実に戻り、また家路に着く。普通の道を歩いていたはずなのに、いつの間にかお墓の中を通っている不思議さまでが芝居の続きのようにも思える。珍しい経験をした。
(9月26日初日公演を観劇)

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2017/06/03

ミュージカル『パレード』~This is not over yet(まだ終わりじゃない)

人生に意味ある瞬間があるとすれば、それは自分の中に確かに存在する見えないものを発見すること。『パレード』を見たことは、少なくとも私の人生にとっては大きな意味がある瞬間だった。

冤罪。と聞けば「冤罪、よくない。ひどい話だ」と思う。それは当たり前のこと。では、なぜ冤罪が生まれるのか…? 正直、今までそこまで突き詰めて考えたことはなかった。

だが、ミュージカルとして目の前の大勢の人たちが意図して、あるいは意図しないで冤罪に加担している様子をありありと見て、では、もし私がこの場にいたとしたらどうなるんだろうかという気持ちが湧き起こるのだ。

たとえば、石川禅さん演じる弁護士ヒュー・ドーシーが1幕の最後にレオ・フランクの犯した罪を切々と訴えるとき、その説得力ある言葉を思わず信じそうになる。
あるいは、ヒュー・ドーシーと新納慎也さん演じるトム・ワトソンが客席に下りて激しい歌声で市民を扇動し、民衆もその言葉に乗ってしまう様子。ジェイソン・ロバート・ブラウンの音楽と歌声と動きが重なると、客席に座っている私も心をかきたてられる。「この熱狂に乗ってしまったら、私も彼らの言葉に乗って“レオは有罪だ!”と思ってしまうかもしれない」ということが自分の実感に落ちるのだ。

森新太郎さんの演出は、「民衆」という塊でなく一人一人を生きた人間として描き出す。だからこそ、「人は人に影響を与え合う」というシンプルな事実が浮かび上がる。一人の人間の発端からドミノ倒しのように真実がなぎ倒されていく様子を、ここまで説得力を持って描けるのは、ストレートプレイでなくミュージカルだから。音楽の圧倒的な力でストレートプレイでは描き切れないものを描き、頭で理解するのではなく、実感として受け止められる。

実感。今から100年以上前のアメリカという遠いお話、ではなくて、今の私たちにもありうるテーマとして力強く迫ってくる。

1913年、アメリカ南部で実際にあった少女殺人事件で、その犯人として冤罪をかけられたレオ・フランクを描いた
『パレード』は1998年のブロードウェイ初演、ロンドンのドンマーウェアハウスでの上演が2007年。日本での『タイタニック』『グランドホテル』演出のトム・サザーランドがロンドン・サウスワークウエアハウスで演出したのが2011年。2015年、ブロードウェイでジェレミー・ジョーダンやラミン・カリムルーが出た1日限りのコンサートバージョンもあった。初演から約20年。やっと日本での上演である。シリアスなテーマをストレートプレイを上回る緊密感で表現し、音楽の力とダイナミックなステージングでリアルな実感を持たせるミュージカル。
日本のミュージカルもここまで来たか、という思いは強い。

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「人は人に影響を与え合う」。それはもちろん悪いことだけでない。
冤罪をかけられたレオ・フランクと妻のルシールの関係にも、やはり「人は人に影響を与え合う」という命題が見えてくる。
北部から来たユダヤ人のレオと南部人の妻ルシール。初めはすべてを理解し合った夫婦ではなかった。しかし、冤罪をかけられ、究極の状況に陥る中で、二人はお互いに協力し合い、絆を紡いでいく。
特に堀内敬子さんが演じる妻ルシールが、初めはただ受け身でしかいられない控えめな女性が、夫レオを助けるためにだんだん力強く、たくましく変わっていく姿は圧巻だ。

そして、レオ。石丸幹二さんのレオが冤罪に追い込まれる男性の心理をつぶさに、一つ一つを歌声に乗せて描き出す。決して「聖人」ではない、生きた人間の息吹がそこにはあった。特にTHIS IS NOT OVER YETのダイナミックさは忘れがたい。

この状況で二人が絆を結ぶ様子は感動的で、物語後半、希望を胸に抱いた二人が歌うAll the wasted timeは情感がこもる。

キャストの皆さんも森さんの演出に答え、キャラクターを色濃く描出した。
岡本健一さんのナイーブな持ち味が知事の人柄を描き出した。
石川禅さんのドーシーは、レオをただ陥れるようとしているのでなく、根本の部分で本当にそう信じているものがあるのではないかと思わせる説得力があって(それが、ユダヤ人に対する排斥意識ということか)、それが非常に恐ろしかった。
新納慎也さん演じるトム・ワトソンは人種差別主義者。存在感が際立ち、民衆を扇動させる様子がヒトラーを彷彿させる演技で印象深い。
ブルージーな歌声が重く響くジム・コンリー役の坂本健児さん。ラストの変節が心に残る武田真治さんの新聞記者、ブリット。
冒頭の南北戦争の兵士の歌声から、作品の持つドラマ性を伝えた小野田龍之介さんは殺されたメアリーのボーイフレンド役を兼ねる。終幕、ボーイフレンドと兵士を兼ねているところの意味が浮かび上がってきたのも、配役の妙(ブロードウェイ版ではこの2役を同じ人がやっていなくて、ロンドン・ドンマーウェアハウス版からそうなっているとのこと)。

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最後に。
http://www.playbill.com/article/think-you-know-parade-think-again音楽のジェイソン・ロバート・ブラウンと作者のアルフレッド・ウーリーのニューヨークのテネメントミュージアム(移民の歴史を伝える博物館)でやった講演での記事。
最後の方に、ウーリーが、レオの最後の場面の現場のすぐ近くにある高校生たちのプロダクションの『パレード』を見に行った話が載っている。そのとき、殺されたメアリー・フェイガンのgrand niece(甥か姪の娘)にあたる人が見に来ていて(名前もメアリー・フェイガン・キーン)、観劇後「この作品での私のおばの描かれ方のいくつかはよかったと思う。でも私は、おばを殺したのはレオ・フランクだと知っている」と言ったとのことだ。(その後ジェイソンは、今も私はレオの無実を信じているし、信じているからこそこの作品が作れたのだと語っている)

人は過去から学ぶことで、未来につなげることができる。『パレード』から得たものは、今の日本に住む私たちにとっても大きい。
THIS IS NOT OVER YET.この物語は終わってはいない。

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2017/04/04

劇団水中ランナー『つぎはぎ』

どういう芝居を見たら心を動かされるんだろうか。もちろん決まりはないけれども、一つには、目の前にいる人たちが生きていること。脚本にドラマがあること。あとは自分の好みの作風、とか。初めて見た劇団水中ランナー『つぎはぎ』は非常にストレートに胸に迫ってきた。「笑って、泣かせる」というありがちな惹句の範疇を軽々と超えて、素直に作品が持つドラマに身を委ねて、結末までたどり着くことができた。

ドラマに身を委ねられた、というのは、堀之内良太さんの作・演出の巧みさに因るところが大きい。作品の冒頭に、児童養護施設で一緒に育った人たちが大人になって再び、その施設の建物で一緒に住むようになった顛末を語るシーンがあって、何人もがカットバックのように語っていく構成(運び)のうまさと一人一人のキャラクターが浮かび上がってきたので、「ああ、きっとこの芝居、面白い」と始まって5分くらいで思わされた。


元養護施設での共同生活。どこかいびつな……?と思うと、徐々にその理由が明かされてくる。そして、その話とパラレルに同じセットで、実際に養護施設として使っている人たちの話が差し込まれる。その「?」の部分がだんだん解き明かされていき、最後に「ああ、そういうことか…」というところまで惹きつけられた。
実はいわゆる「泣かせる」系の作品は若干ニガテなのだけれど、堀之内さんの巧みな構成力があったおかげで伝えようとするメッセージに私も手が届いた気がする。
命の証を残したい、次の世代に託す思い、思いを受け継いでいく。タイトルになっている「つぎはぎ」というのは、そんな意味が込められているのかと。

キャストの方たちも繊細な心情の部分まで皆さん、丁寧に演じていて、いいなあと思う。元養護施設に皆を呼び戻す男性(実は難病で命に限りがあった)を演じた高橋卓士さんがリアルに心情を立ち上げて、まだ見ぬ子どもへの思いを吐露する場面に心揺さぶられた。その奥さん役の遠山さやかさんも細やかに演じた。画家役の栗栖裕之さんも独自の存在感があった。

いい舞台だった。水中ランナーの、また別の作品も見てみたいと思う。

最後に余談で。劇団員の方がどなたかも存じ上げないまま見ていたので、芝居が終わってカーテンコールであのうざキャラの「あきら」役の方が主宰の堀之内さんと知って、非常にびっくりした(笑)。

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