2016/10/25

ミュージカル『ドリアン・グレイ』(韓国)~キム・ジュンスが深いドラマを創り出す

ソウル・城南アートセンターでオリジナルミュージカル『ドリアン・グレイ』を観劇した(22日マチネ・ソワレ)。
注目はキム・ジュンスさんのドリアン、パク・ウンテさんのヘンリー、チェ・ジェウンさんのバジルという布陣。そして演出家イ・ジナさんの手腕。
イ・ジナさんは以前『ヘドウィグ』を見たとき、キム・ジェウクさん主演時と別の方の主演時でまったくアプローチと演出を変えてきて、なおかつ本質に迫っていくスタイルを取っていて、感嘆させられた。(← 2011年観劇時のブログ「韓国版『ヘドウィグ』」参照)
今回は、キム・ジュンスさんというキャストを得て、ジュンスさんの個性と特技を用いてドリアン・グレイという人物像を浮き彫りにする。(ショーアップ目的で本人の個性を生かす、ということでなくて、役者の個性を通して役柄により深くアプローチしようとしてらっしゃるのだと思う)

なぜタイトルが原作どおりの『ドリアン・グレイの肖像』でなくて『ドリアン・グレイ』という人物名になっているかというと、肖像の変化という怪異譚でなく、ドリアン・グレイという人物像を描き、そこに「良心との葛藤」という普遍的なメッセージを込めたいからはないか、と想像する。

そして、オリジナル・ミュージカルということ。私は日本では宝塚の紫吹淳さん主演版、スタジオライフのオールメール(男優のみ)版、山本耕史さん主演の出演者が6人のみのバージョンとを見ているが、観念的な内容の原作はミュージカル化するにはハードルが高い演目だと思う。今回の韓国版は工夫を凝らし、豊かな音楽と想像をかきたてる映像を交えた美術で、クラシックな雰囲気の中に現代的な要素を盛り込んで、現代に通じる作品として仕上げた。

特に印象に残るのは、ドリアンと最初に出会ったヘンリーが唯美主義を歌うナンバー。このメロディを続けてドリアンが歌うことで、唯美主義の考えがドリアンの心に浸透していっているということが表現され、観客も理屈でなく実感として受け止められる。ミュージカルならではの表現で、この作品をミュージカルにした意味があった。このメロディはドリアンの死の直前のソロの中でも一部歌われて、ドリアンの20年の軌跡も感じさせるのだ。

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ドリアンは、友人の画家バジルが描いた肖像画を見て自分の美しさに気付く。唯美主義を実践するヘンリーの感化を受け「自分の代わりにこの絵が年を取ればいいのに……」と願ったドリアンの言葉が現実のものに。ドリアンの美しさはそのままに、肖像画がドリアンの悪事の代償を引き受けて醜くなっていく……。
作者のオスカー・ワイルドは「ヘンリーは世間の人から見た私、バジルは私が自分自身だと思う私、ドリアンは自分がなりたい私」と書いているが、この舞台でもこの3人を中心としてストーリーが進んでいく。

キム・ジュンスさんのドリアン・グレイ。
これまでのミュージカルにおけるジュンスさんは、たとえば『エリザベート』のトート役での登場シーンでエリザベートの肖像画をずっと見つめて、客席には後ろ姿を向けていたり、『デスノート』1幕ラストで高所の手すりに飛び乗ってしゃがみ込み、不安定な世界をL役として象徴して見せたり、と独自の感性とアプローチで役柄を体現してきた。今回のドリアン・グレイ役では演技者としてさらに深みを見せた。
純粋な青年がヘンリーによって唯美主義を吹き込まれ、悪事を重ねながらも自身の美しさは20年も保ち続ける……という役だがそのときどきに表情を変えて、人物像を明確に浮かび上がらせる。
特に、純真な姿からスタートした1幕と悪の世界に身を浸す2幕の違いが対照的だ。この二面性の浮かび上がらせ方は、作者オスカー・ワイルドが一つの事柄に常に二面性を与えていたこととも重なり合う。

上に書いたイ・ジナ演出が「役者の個性を通して役柄により深くアプローチする」という点では、ジュンスの得意とするダンスをミュージカルにも取り入れた。最初の登場シーンでショパンの曲に載せたダンスではドリアンのピュアな内面を表し、1幕のラスト「Against Nature」では自然の摂理に逆らったでも唯美主義を体現したいと願う激しい思いをダンスにぶつける。2幕冒頭の肖像画の影とドリアン自身との葛藤をダンスに表現するシーンは、物語上でもとても効果的だった。

ジュンスさんは今回のドリアン・グレイを演じるにあたって「さまざまな翻訳の原作を読みながら、1か月かけて俳優や演出家、作家たちと台本の内容を一生懸命勉強」したとのことだ。(先日、翻訳家の松岡和子さんに取材させていただいたとき「蜷川幸雄さんが翻訳戯曲を演出するときは、自分が使う台本だけでなく、あらゆる翻訳を手に入れて読んだ」というエピソードを語ってくれたのだが、それに通じるものがあると思う)深く物語をとらえようという努力が、ドリアンを演じる上での表現の多彩さや深みにつながったのだろう。特に2幕のラストシーンでの長いソロナンバーに、ドリアンに宿る様々な心理があふれ出た。ドリアンの人生がそこに凝縮し、大きなドラマを生んだ。

パク・ウンテさんのヘンリーは、彼の唯美主義の思想を歌で表現するという役どころであり、確かな存在感を放った。20年の経過を演技で見せたもらえたら、よりよかったかと。日本では『スリル・ミー』の「私」役で知られるチェ・ジェウンさんはバジル。バジルの人柄がにじむ演技で好演。ドリアンのジュンスさんと、三人のトライアングルで見せる舞台だった。

作品中で気になるところをあげるとすれば、ドリアンが恋するシヴィルの設定。原作の場末の女優でなく大劇場の女優にしたのは、見栄えの問題を考えてかもしれないけれど、「醜の中に美を見つける」という原作に描かれた対比が生きてこない。恋をしたシヴィルが演技下手になる…というシーンが戯画的に描かれているのも、個人的にはあまり好みではない。チェコで撮ってきたという映像は概ね美しいが、本人が歌っているところでご本人の映像が大写しになるのは、せっかく生身で演じている方が見辛くなってしまうので、一考を要するところ。

話がそれるが、日本では大劇場で上演される、日本人スタッフによるオリジナルミュージカルは非常に数少ない。(今年だと『DNA SHARAKU』くらいか? 『王家の紋章』はオリジナルミュージカルの新作だが、作曲はリーヴァイさんだったし)それだけオリジナルミュージカルを作るのが大変だということだし、これだけの上演規模とレベルの高い音楽、美術、演出とで新作『ドリアン・グレイ』を生み出したパワーには感服する。

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2016/06/04

あやめ十八番『江戸系 諏訪御寮』

漆黒に黒を塗り重ねたような、闇。
そんな深い闇を感じさせたのがあやめ十八番初の再演作品となる『江戸系 諏訪御寮』。
脚本は初演当時のままとのことだが、美術は初演の床面に大きい陰陽マーク(勾玉形の)と二角を白い障子が囲むものから、今回は同時上演の『ゲイシャパラソル』と共通の、正方形の黒い舞台に(客席二面)。LEDで鮮やかな色合いを印象付けた『ゲイシャ~』とは対照的に、この「漆黒」が、「鬼が死んだ赤ん坊をよみがえらせる」命を借りる物語でもあるこの作品を、さらに際立たせる。

初演は2014年で、そのときの感想はコチラ(「ある意味、EVERYTHING IS RENT~あやめ十八番『江戸系 諏訪御寮』を見ました」)。十六島にある鬼の伝説と「拝み屋」の諏訪家と篠塚家の物語、拝み屋の過去の怪異譚が絡み合うストーリーはもちろん同じだけれど、総合的な見せ方が洗練されて、音楽との緩急などから、複雑な筋立てをよりわかりやすく見せられるようになった印象(私が、堀越さんの作風を見慣れたせいかもしれないけど)。
また、お線香の匂いがするお札とか、火鉢の使い方とか、現実に根差したリアルな描き方、というか、リアルの演劇へのすくい上げ方もうまいなあ、と思う。

いろんな要素がある物語の中で、初演の感想にも書いたとおり、堀越さんの死生観、喪ったものたちとどう向かい合うのか、というのが個人的には印象に残る。
喪われたものは、いつか、かえってくるのだろうか。
2時間の物語にたゆたう内に、そんな思いが浮かんでは消えていく。

さて。演者では、御寮さん役の金子侑加さんが日本人形のような外見と「神性」さえ感じさせる演技で、鮮烈な印象を残した。土佐まりなさんの「少女」と美斉津恵友さん諏訪家次男春平との恋が瑞々しい。

劇中、扉をコツコツと叩く音にぞくっと背筋が寒くなるものを感じる。「怖い話をやろうというわけじゃない」と最初の口上で堀越さんが言っているけれど、心の中に素朴な恐怖心(畏怖心?)がかき立てられて、そんな心の隙間に物語のあれこれがしみわたっていくような舞台でもあった。

新たな代表作となるであろう新作『ゲイシャパラソル』と初期の代表作『江戸系 諏訪御寮』で、演劇的成果は高かったと思う二作品同時上演だった。

公演は5日まで、サンモールスタジオにて。チケット完売で、キャンセルが出たときのみ当日券が出るとのこと。


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2016/05/31

あやめ十八番『ゲイシャパラソル』

鮮やかに、花が開いた。
あやめ十八番の新作『ゲイシャパラソル』で、堀越涼さんの作劇が一段階大きくなった、という印象だ。
平成60年代の東京深川、芸者のお座敷が舞台。
擬古典ならぬ擬大正時代(?)のような、大正か昭和初期の雰囲気で未来の東京が語られる作品だ。


公演のパンフレットで堀越涼さんのインタビューをした関係で1シーンの稽古を拝見して中盤までの(結末まで至らない)台本を読んでいたけれど、パンフレットでも書いたとおり、話がこの先どう展開するかはまったく予測がつかず。これは初見のお客様が作品途中で抱く感想ときっと同じだと思うのだが、果たして本番で通して見て、ラストに至るまでの押し寄せるような展開に引き込まれた。劇中「ファンファン」と呼ばれる中国の台頭の話や名前の売買、戸籍を売った日本人たち、選挙の裏面などそれだけで一つの物語が書けそうな素材をたくさん投げ込み、粒立たせ、さらにそれが一人の芸者の恋に収束する。


印象が際立つシーンはたくさんあって。
自分の名前を売った芸者たちが名乗りを上げるシーンの鮮烈さ。不見転芸者(小口ふみかさん)と幇間(安東信助さん)の切ない恋。冒頭のダンス(振付ミヤタユーヤさん)。あるいはお座敷遊びのトラトラ、金毘羅船々の現代的なアレンジ(楽隊の吉田悠さん。今まであやめ十八番の音楽を担当していた吉田能さんとはご兄弟なのだが、能さんよりももっとソリッドでシャープな感覚があるのが作品に異化効果をもたらした)。
こんな様々な要素がぶつかり合わずに一本の芯に収束していくのは、堀越さんの手腕であって。また構造的にも、今までは重層的に物語が錯綜するスタイルの作品が多かったが(『江戸系 諏訪御寮』『淡仙女』など)要素は多くても、構造はそこまで複雑でなく、なおかつ観客がついていけなくなりそうなところは野良猫(木原実優さん)が説明してくれるので(笑)、今までよりストーリーラインはつかみやすいものになっていると思う。


そして、芸者。今の20~30代の作・演出家の方で芸者の世界がリアルに描ける人が他にいるかと考えるとそれは稀有なことだと思う。堀越さんが花組芝居『花たち女たち』などで芸者の役を演じている経験を活かし、また出演者もその演出に応えた。(演技的にはやはり堀越さんが演じる菊弥の芸者としての存在の仕方、「擬大正」の時代感は群を抜いているけれども)


ここで語られるのは深川でただ一人、名を売らない芸者、仇吉。実際に深川芸者は男名前をつけていたそうだが、そんな「意気と張り」を持つ彼女の内面が徐々に明かされていくのが一つのドラマとなる。演じるのは大森茉利子さんで、個人的には大森さんが演じて私が拝見したものの中では一番好きかな。前半の強くきつい芸者から、彼女の秘められた過去と恋にフォーカスし内面を見せる変化が瑞々しい。彼女の演技からふと「自分の存在って何だろう?」と思いを巡らせるものがあった。(強いて言えば、前半のきつい部分にももう少しいろんな色が見えてくれば、より素晴らしいかと)

そして、過去に仇吉と恋をした傘職人の笹木晧太さんが、すがすがしい存在感で回想シーンを彩る。


存在感といえば。
あまり小劇場の舞台では出てこないような「実存感」があるキャラクターが出てくるのも見どころ。実際に新内語りのお師匠さんでもある新内勝喜さんが三味線を演奏し、芸者に歌(芸)を教えるシーンがある。また、冒頭から登場する「おもらいさん」役の森川陽月さん。物語のキーになる重要な人物で、終わった後に思わず堀越さんに「あの人は誰ですか!?」と聞いたくらい(笑)、どろっとした、心をざわつかせる存在感があった。聞けば、長年演劇と関係ない仕事をしてきて、57歳にして役者を目指して上京された方とのこと。こういう方を見出して(オーディションにいらしたのかな?)適役に起用されるのも、堀越さんの慧眼かなあと思う。また、お座敷で端を発して「政治」的な攻防を繰り広げる男性二人、和知龍範さんと塩口量平さんは肚が据わったところを見せた。


こうしてつらつらと書いてきたけれども、そして普段は職業柄か芝居を見て「ここがこうで、こうだから→この芝居は面白いんだ」と自分の中で編もうとするところがあるのだけれど、うまくその枠組みにはまらないところがあるのを感じていて。あらゆる要素が有機的に絡まって、総合的な一つの塊として、この作品が演劇として面白いと思ったんだなー、と思う。この作品はこういうテーマ!と一言で言えるのなら、演劇にする必要もないし、とにかく125分、作品の世界に没入していたのは確かだ。
『ゲイシャパラソル』、あやめ十八番の新しい代表作の一つとして、花開いた(傘の花も)。

公演は6月5日まで、サンモールスタジオ。『江戸系 諏訪御寮』と交互上演。

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