2017/06/03

ミュージカル『パレード』~This is not over yet(まだ終わりじゃない)

人生に意味ある瞬間があるとすれば、それは自分の中に確かに存在する見えないものを発見すること。『パレード』を見たことは、少なくとも私の人生にとっては大きな意味がある瞬間だった。

冤罪。と聞けば「冤罪、よくない。ひどい話だ」と思う。それは当たり前のこと。では、なぜ冤罪が生まれるのか…? 正直、今までそこまで突き詰めて考えたことはなかった。

だが、ミュージカルとして目の前の大勢の人たちが意図して、あるいは意図しないで冤罪に加担している様子をありありと見て、では、もし私がこの場にいたとしたらどうなるんだろうかという気持ちが湧き起こるのだ。

たとえば、石川禅さん演じる弁護士ヒュー・ドーシーが1幕の最後にレオ・フランクの犯した罪を切々と訴えるとき、その説得力ある言葉を思わず信じそうになる。
あるいは、ヒュー・ドーシーと新納慎也さん演じるトム・ワトソンが客席に下りて激しい歌声で市民を扇動し、民衆もその言葉に乗ってしまう様子。ジェイソン・ロバート・ブラウンの音楽と歌声と動きが重なると、客席に座っている私も心をかきたてられる。「この熱狂に乗ってしまったら、私も彼らの言葉に乗って“レオは有罪だ!”と思ってしまうかもしれない」ということが自分の実感に落ちるのだ。

森新太郎さんの演出は、「民衆」という塊でなく一人一人を生きた人間として描き出す。だからこそ、「人は人に影響を与え合う」というシンプルな事実が浮かび上がる。一人の人間の発端からドミノ倒しのように真実がなぎ倒されていく様子を、ここまで説得力を持って描けるのは、ストレートプレイでなくミュージカルだから。音楽の圧倒的な力でストレートプレイでは描き切れないものを描き、頭で理解するのではなく、実感として受け止められる。

実感。今から100年以上前のアメリカという遠いお話、ではなくて、今の私たちにもありうるテーマとして力強く迫ってくる。

1913年、アメリカ南部で実際にあった少女殺人事件で、その犯人として冤罪をかけられたレオ・フランクを描いた
『パレード』は1998年のブロードウェイ初演、ロンドンのドンマーウェアハウスでの上演が2007年。日本での『タイタニック』『グランドホテル』演出のトム・サザーランドがロンドン・サウスワークウエアハウスで演出したのが2011年。2015年、ブロードウェイでジェレミー・ジョーダンやラミン・カリムルーが出た1日限りのコンサートバージョンもあった。初演から約20年。やっと日本での上演である。シリアスなテーマをストレートプレイを上回る緊密感で表現し、音楽の力とダイナミックなステージングでリアルな実感を持たせるミュージカル。
日本のミュージカルもここまで来たか、という思いは強い。

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「人は人に影響を与え合う」。それはもちろん悪いことだけでない。
冤罪をかけられたレオ・フランクと妻のルシールの関係にも、やはり「人は人に影響を与え合う」という命題が見えてくる。
北部から来たユダヤ人のレオと南部人の妻ルシール。初めはすべてを理解し合った夫婦ではなかった。しかし、冤罪をかけられ、究極の状況に陥る中で、二人はお互いに協力し合い、絆を紡いでいく。
特に堀内敬子さんが演じる妻ルシールが、初めはただ受け身でしかいられない控えめな女性が、夫レオを助けるためにだんだん力強く、たくましく変わっていく姿は圧巻だ。

そして、レオ。石丸幹二さんのレオが冤罪に追い込まれる男性の心理をつぶさに、一つ一つを歌声に乗せて描き出す。決して「聖人」ではない、生きた人間の息吹がそこにはあった。特にTHIS IS NOT OVER YETのダイナミックさは忘れがたい。

この状況で二人が絆を結ぶ様子は感動的で、物語後半、希望を胸に抱いた二人が歌うAll the wasted timeは情感がこもる。

キャストの皆さんも森さんの演出に答え、キャラクターを色濃く描出した。
岡本健一さんのナイーブな持ち味が知事の人柄を描き出した。
石川禅さんのドーシーは、レオをただ陥れるようとしているのでなく、根本の部分で本当にそう信じているものがあるのではないかと思わせる説得力があって(それが、ユダヤ人に対する排斥意識ということか)、それが非常に恐ろしかった。
新納慎也さん演じるトム・ワトソンは人種差別主義者。存在感が際立ち、民衆を扇動させる様子がヒトラーを彷彿させる演技で印象深い。
ブルージーな歌声が重く響くジム・コンリー役の坂本健児さん。ラストの変節が心に残る武田真治さんの新聞記者、ブリット。
冒頭の南北戦争の兵士の歌声から、作品の持つドラマ性を伝えた小野田龍之介さんは殺されたメアリーのボーイフレンド役を兼ねる。終幕、ボーイフレンドと兵士を兼ねているところの意味が浮かび上がってきたのも、配役の妙(ブロードウェイ版ではこの2役を同じ人がやっていなくて、ロンドン・ドンマーウェアハウス版からそうなっているとのこと)。

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最後に。
http://www.playbill.com/article/think-you-know-parade-think-again音楽のジェイソン・ロバート・ブラウンと作者のアルフレッド・ウーリーのニューヨークのテネメントミュージアム(移民の歴史を伝える博物館)でやった講演での記事。
最後の方に、ウーリーが、レオの最後の場面の現場のすぐ近くにある高校生たちのプロダクションの『パレード』を見に行った話が載っている。そのとき、殺されたメアリー・フェイガンのgrand niece(甥か姪の娘)にあたる人が見に来ていて(名前もメアリー・フェイガン・キーン)、観劇後「この作品での私のおばの描かれ方のいくつかはよかったと思う。でも私は、おばを殺したのはレオ・フランクだと知っている」と言ったとのことだ。(その後ジェイソンは、今も私はレオの無実を信じているし、信じているからこそこの作品が作れたのだと語っている)

人は過去から学ぶことで、未来につなげることができる。『パレード』から得たものは、今の日本に住む私たちにとっても大きい。
THIS IS NOT OVER YET.この物語は終わってはいない。

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2017/04/04

劇団水中ランナー『つぎはぎ』

どういう芝居を見たら心を動かされるんだろうか。もちろん決まりはないけれども、一つには、目の前にいる人たちが生きていること。脚本にドラマがあること。あとは自分の好みの作風、とか。初めて見た劇団水中ランナー『つぎはぎ』は非常にストレートに胸に迫ってきた。「笑って、泣かせる」というありがちな惹句の範疇を軽々と超えて、素直に作品が持つドラマに身を委ねて、結末までたどり着くことができた。

ドラマに身を委ねられた、というのは、堀之内良太さんの作・演出の巧みさに因るところが大きい。作品の冒頭に、児童養護施設で一緒に育った人たちが大人になって再び、その施設の建物で一緒に住むようになった顛末を語るシーンがあって、何人もがカットバックのように語っていく構成(運び)のうまさと一人一人のキャラクターが浮かび上がってきたので、「ああ、きっとこの芝居、面白い」と始まって5分くらいで思わされた。


元養護施設での共同生活。どこかいびつな……?と思うと、徐々にその理由が明かされてくる。そして、その話とパラレルに同じセットで、実際に養護施設として使っている人たちの話が差し込まれる。その「?」の部分がだんだん解き明かされていき、最後に「ああ、そういうことか…」というところまで惹きつけられた。
実はいわゆる「泣かせる」系の作品は若干ニガテなのだけれど、堀之内さんの巧みな構成力があったおかげで伝えようとするメッセージに私も手が届いた気がする。
命の証を残したい、次の世代に託す思い、思いを受け継いでいく。タイトルになっている「つぎはぎ」というのは、そんな意味が込められているのかと。

キャストの方たちも繊細な心情の部分まで皆さん、丁寧に演じていて、いいなあと思う。元養護施設に皆を呼び戻す男性(実は難病で命に限りがあった)を演じた高橋卓士さんがリアルに心情を立ち上げて、まだ見ぬ子どもへの思いを吐露する場面に心揺さぶられた。その奥さん役の遠山さやかさんも細やかに演じた。画家役の栗栖裕之さんも独自の存在感があった。

いい舞台だった。水中ランナーの、また別の作品も見てみたいと思う。

最後に余談で。劇団員の方がどなたかも存じ上げないまま見ていたので、芝居が終わってカーテンコールであのうざキャラの「あきら」役の方が主宰の堀之内さんと知って、非常にびっくりした(笑)。

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2016/12/23

あやめ十八番『霓裳羽衣』

壮大な舞台だった。インドの神々と人間が織り成す「不幸には底がない」という話。
東京芸術劇場初進出作品として、劇場のスケールを軽く超えた壮大なスケールの話を打ち出した。
思えばあやめ十八番前作の『雑種 花月夜』は離婚した旦那さんに会うかどうかという話と劇中の虫ミュージカルで、めっちゃミクロな世界からめっちゃマクロな世界へと大転換しているので(笑)、その振れ幅の大きさには驚かざるを得ない。

インド神話から取った神々の名前、あと、「劫=一辺40里の岩を、326年に一度天女が舞い降りて羽衣(霓裳羽衣)でなで、岩がすり減って完全になくなるまでの時間を指す」という長い年月を表すたとえ話を借りて、ストーリーは作・演出であやめ十八番主宰の堀越涼さんがオリジナルで作ったものだということ。

そして、「贋作女形」芝居。
堀越さんの花組芝居での女形経験という演劇的ルーツに遡る試みでもある。
堀越さんに本公演のパンフレットの取材で伺った話では、「岩の下敷きになった女の子の話がやりたい」と思いついた→この話のスケールに合うのはインド神話くらいしかないと思いついた→さらに、大奥の話を合体させた、という順番で発想されていったということ。

まあ、最近はオールメールでやる舞台も結構ある。そして、私個人としては(元が宝塚ファンからスタートしているので)「男役十年」みたいな積み重ねてきた「芸」を見ることを尊重する、という立場もあり、贋作女形劇というのはどうだろうか……というのは見る前は若干の不安もあった。が、実際見てみてなかなか面白いものだったと思う。それは「設定を大奥にしよう」としたのが功を奏したのかな。インドの神様の話なのに全体的に歌舞伎味の強い台本であっても設定が大奥だから違和感なく、統一感が取れている。おそらくは演技として基調に堀越さんの作る女形像があり、そこからそれぞれの人の個性とアプローチで女形を作るということでバラエティに富みつつ、散漫にならないものが出来上がっていた気がする。

ギリシャ悲劇に通じるような神々の壮大な話を演じられるのは男性の力強い肉体を持ってこそだし、逆に男性がやるからこその、ちょっとした(ふふっと笑っちゃうような)おかしみもあったのもポイントになった。
千穐楽のご挨拶で堀越さんが「贋作女形劇、またやりたい」というようなことをおっしゃっていたけれど、他の劇団やユニットではできないものだと思うので、ぜひまた違う形で見てみたいなと思う。

話としては本当に不幸な話で、しかも最後の最後まで徹頭徹尾不幸な話で、そこまで行くとカタルシスがあるなあという感じ。なんだけれども、今回2回見て2回ともふっと目が潤んだのは、ソーマの死の直前に亡くなったお母さんが迎えに来る場面。不幸で塗りこめられている話の中で、純粋な愛情を娘に注ぐ母の姿が印象的で(母親役梅澤裕介さん好演)、そこに家族の愛情を貴ぶ堀越さんの視点があったように思う。

演出的な見せ方として、役者さんが動かすパネルで、岩と大奥の襖を裏表で表現するところに、ダイナミックさがあった。もう一つ、ステージ上の段に生演奏の楽隊(今回は全員役者さんと音楽の吉田能さんが演奏)がいて、彼らも神々であり、他の神々の争いを高みの見物しつつ、上界から音楽が降り注ぐいう構図が効果的だった。(サラスバティーの田中真之さんの「インドの神様」感が半端ない)今回もオリジナル音楽と生演奏、それに生効果音で作品をより立体的にした。特に、カーテンコールでも演奏される曲がインドの悠久さを感じさせる。

すべての発端となるダーキニーの笹木晧太さんは色気があって、笹木さんとしても今までにない感じを見せた。御台所パールバティー小林大介さんと姉妹役の原口紘一さん、小坂竜士さんが男性がやる女形ならではの迫力。小林さんの髭の女形も「あー、そうだよね」となぜか納得がいった(笑)。アラクシュミー(インド神話の不幸を司る女神の名前だが、邪視という設定は堀越さんが考えたものかな?)の尾﨑宇内さんの悲劇性が色濃くて、物語が深まった。ラクシュミー堀越さんは登場した瞬間から、違う世界の神という存在感が極まる。

復讐の鬼となるサントーマ・シー美斉津恵友さんは「鬼」になった変化をくっきり見せたのと、客席を通り過ぎる動きが水を滑るようでさすがだな、と。ウシャス北沢洋さんの「海千山千」なしたたかさ、老婆の熊野善啓さんの深さ。水澤賢人さんの少女アシュミタの純粋さ。ソーマの二瓶拓也さんが普通の少女が運命の糸に絡めとられて行く様が切ない。ヴィナーイカーの和知龍範さんが美しく、ラストに衝撃感。塩口量平さんのお褥滑りの側室ミーナクシーが面白く、シュクラの聡明さも。女狐ジョヌ(佐藤修作さん)の最初の台詞が「今夜」が「コーーーンヤ」になって、『義経千本桜』の狐忠信の狐言葉みたいになっていたのが面白い趣向。

力のこもった舞台だった。2時間5分の上演時間中、1時間50分くらいまで「この話はどういう先に行き着くんだろう」と思って見ていて(笑)、強い物語力に引きずられていった。あやめ十八番という団体としては、また新たなタームに到達したなという印象。

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